ゆかりの地
十九代当主武田信玄は、十八代当主武田信虎と大井夫人の長男として生まれる。成人して晴信を名乗るが、一般に知られている信玄は法名である。
天文10年(1541)、父信虎を駿河に追放して甲斐の守護となり、信濃を制圧して山内上杉家十六代当主上杉謙信と対立し、五度に及び川中島で合戦を繰り返す。
その後、将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、戦国最強と謳われた甲斐軍団を率いて京都進出を企て、徳川家康を三方ヶ原に破る。
武田信玄の菩提寺、乾徳山恵林寺(臨済宗)は、元徳2年(1330)、牧荘(現、塩山・牧丘方面)の領主二階堂貞藤が・夢窓疎石を開山にして創建した。五山・十刹につぐ諸山に列せられ、南北朝時代には多くの禅僧が、京・鎌倉より入寺し、東国の臨済禅の中心として発展した。
元亀4年(1573)三河の野田城攻略中に発病。帰国途中の信濃伊那駒場で没する。密かに甲斐国に送られた武田信玄の遺骸は葬儀まで塗籠の中に納められていたと信玄の最期を伝える手紙は記している。一方、伊那の駒場で茶毘に付されたとの説もあり、遺骸がどのように処置されたかは不明である。この場所を信玄の墓所として公認したのは、信玄を崇敬した柳沢吉保である。