ゆかりの地
徳川家康は天文11年(1542)12月26日、岡崎公園二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転機を続け、慶長5年(1600)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。
徳川家康は、持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕府300年の基盤を作り、元和2年(1616)4月17日75才で4この世を去った。城内には家康のえな(胞衣)を埋めた「えな塚」がある。
徳川家康は、元亀元年(1570)から17年間にわたる青壮年期を浜松城ですごし、岡崎城から浜松城へ本拠を移したときに、引間という地名を「浜松」に改めたという。浜松在城中に姉川、長篠、小牧・長久手の戦いが行われた。
徳川家康は、天正13年(1585)松平家忠に駿府城の築城を命じ、翌年浜松城から移り、1589年に完成させた。その後、江戸幕府を開いた家康は、慶長10年(1605)将軍職を二代将軍徳川秀忠にゆずり、駿府を大御所政治の中心に位置づけ、慶長12年(1607)2月から天下普請として諸大名を動員し、駿府城の大改修工事を行った。
慶長8年(1603)、征夷大将軍に就任し江戸幕府を創立した徳川家康は、江戸城にの大改修を開始する。慶長11年(1606)には、本丸・二の丸が全面的に石垣造りに築き直され、最初の天守が建てられた。
名古屋城は織田信長の居城であった那古野城跡に、徳川家康の天下普請で築城された巨大な城である。「尾張名古屋は城でもつ」と謳われたようになった。
久能山東照宮は、元和2年(1616)4月、大御所徳川家康が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。二代将軍徳川秀忠が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。
寛永17年(1640)に三代将軍徳川家光により、木造桧皮葺の造りから現在の石造宝塔に造替された。
「徳川家康の没後、その遺言により元和3年(1617)に創建されたが、20年後の三代将軍徳川家光のときに膨大な資金と労力を投入し、わずか1年5ケ月で現在の社殿に造りかえられた。日光は江戸の真北に位置し、陰陽道の「風水」によれば、江戸を守る重要な役割をもつ神聖な場所である。そして、真北の奥社には家康が眠っている。」(※)
東照宮の最奥部には、東照宮の祭神である徳川家康の宝塔がある。宝塔は高さ5メートル余、八角九段の石段の上に立てられ、朝鮮国から贈られた鶴のローソク立てなとが置かれている。
大樹寺 三門 (撮影 2016.9.11)松平家・徳川家の菩提寺として名高い大樹寺(浄土宗)は、文明7年(1475)、勢誉愚底上人を開山として松平氏四代親忠により創建された。
昭和44年(1969)には、父広忠の墓(松平八代墓所)に隣接して徳川家康の墓も建てられた。墓碑の法名は徳川当主恒孝氏に依頼したものである。