寛永18年(1641)に三代将軍徳川家光が建立したもので、後奈良天皇の筆による勅額をいただき、上層内部には釈迦三尊像・十六羅漢像を安置している。
三門から後ろを振り返ると、今は小学校敷地にある総門をとおして一直線に岡崎城が遠望される。
「鐘楼は本堂に進む右手には、家光建立の重層袴腰付の鐘楼があり、その梵鐘は九代将軍徳川家重が鋳造させたものである。
境内の南西隅には、伽藍のなかでもっとも古い建物である多宝塔が格調の高いたたずまいをみせる。天文4年(1535)に家康の祖父松平清廉により建立されたこの塔は、一層が方形、二層が円形をなし、屋根は檜皮葺きで下層に多宝如来像がおさめられている。暮股・拳鼻などの絵様および彫刻その他の細部の様式も室町時代末期の手法をよく伝える建物である。」(※)
「松平家・徳川家の菩提寺として名高い大樹寺(浄土宗)である。寺は文明7年(1475)、勢誉愚底上人を開山として松平氏四代親忠により創建された。「大樹」とは、唐名で「将軍」を意味する言葉という。慶長8年(1603)に徳川家康が征夷大将軍に任せられると、将軍家先祖の菩提所として寺格を高めて幕府の手厚い保護をうけ、1606年には後陽成天皇から勅願所とされ、常紫衣許可の輪旨をもうけた。
安政2年(1855)に生じた火災で、本堂とそれにつながる主要な建物をことごとく失ったが、その2年後に十三代将軍徳川家定により、現在の本堂や大方丈が再建された。」(※)
松平氏の菩提寺であるこの寺に元和元年(1615)徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年(1617)には天領代官畔柳寿学が奉行となり現在の姿に整備された。
昭和44年(1969)には、父広忠の墓に隣接して家康の墓もたてられた。墓碑の法名は徳川当主恒孝氏に依頼したものである。
徳川宗家の御承認を始め、日光東照宮、久能山東照宮にも御連絡の上、三河人永年の愛惜しむをこめてここに全国ただ一基と思われる佛式による墓碑の法名は建立いたした次第である。