表参道の正面に大石段と畳1枚分の「東照大権現」の大額を揚げた巨大な石鳥居がある。鳥居手前の石段は「千人桝形」と呼ばれる。バロックの巨匠ベルニーニの設計によるバチカン聖ピエトロ寺院前広場と同様の幾何学的構造で、石鳥居をさらに大きく見せている。
高さ約35メートル、総漆塗りの壮麗な五重塔。見た目は不安定だが、吹き抜けの内部に心柱が吊り下げられ、揺れを調整している。初層を飾る十二支の動物と植物は、方角の守りとされている。
京都七粂仏師康晋作の仁王像が安置された表門は、古くは仁王門・総門とよばれた。
鉄を食べる獏は、兵器の必要ない平和の時代を象徴する。
下神庫・中神庫・上神庫からなる三神庫(国重要文化財)は、東照宮の神事に使う用具が収められている。
「上神庫側面の妻には、2頭の大きな象の彫刻がある。狩野探幽が想像で下絵を描いたというので想像の象(左)と想像の象(右)と呼ばれている。狩野探幽は徳川家康に謁見し、元和3年(1617)から江戸幕府の御用絵師となる。江戸城、二条城などの絵画制作に携わり、大徳寺など有名寺院の障壁画でも活躍。その才能を広く認められた。」(※)
神厩舎にある8ページの絵本「猿の物語」は、猿の一生が描かれている。中でも「子供の内は悪いことは見ない・聞かない・話さない」の三猿は有名で、ひときわ人気を集めている。
天海版の一切経を収めた建物。
鐘楼は釣鐘を納める建物。彫刻の種類と数は、鶴・竜・飛竜・麒麟・波など合計78体ある。
南蛮鉄灯籠は、仙台藩初代藩主伊達政宗が、ポルトガルからわざわざ鉄材を輸入して鋳造したといわれ、陽明門石垣下にある。境内にある灯籠の中でも最も有名である。
「徳川家康の没後、その遺言により元和3年(1617)に創建されたが、20年後の三代将軍徳川家光のときに膨大な資金と労力を投入し、わずか1年5ケ月で現在の社殿に造りかえられた。日光は江戸の真北に位置し、陰陽道の「風水」によれば、江戸を守る重要な役割をもつ神聖な場所である。そして、真北の奥社には家康が眠っている。」(※)
正面には、中国故事などに因んだ人物像の装飾彫刻どがある。
「グリ紋」と呼ばれる渦巻模様が下向きになっている「魔除けの逆柱」は、下向きの彫刻も陽明門が未完の状態であることを示している。
陽明門の両脇に連なる左右の回廊には、見事な花鳥の彫刻が飾られている。
奥社に通じる坂下門手前に、代表的な木彫「眠り猫」がある。
陽明門造営の彫刻師の棟梁、左甚五郎の手になると伝わる。「不浄なものは鼠1匹通さない」と解釈されてきたが、害をなす鼠がいないから眠っているとみる説もある。家康によってもたらされた平和を象徴しているのかもしれない。
白い胡粉塗りの唐門は、中国古代の帝王舜帝の朝見の様子を描いた彫刻や、唐破風上におかれた霊獣恙の金工が目を引く。柱に昇り龍、降り龍の彫刻が施されるなど工芸品のような美しさがある。
神輿舎には、東照宮の例大祭である千人行列で用いられる徳川家康・豊臣秀吉・初代将軍源頼朝の3基の神輿が納められている。
奥社に通じる坂下門は、江戸時代は将軍しか入れなかった「開かずの門」。全体に胡粉を塗った清楚な感じだが、柱や天井を飾る金具は七宝焼。欄間には鶴、腰羽目には牡丹と唐草模様の彫刻がある。
「句碑「あなたふと 青葉若葉の 日の光」(日光)
取り壊された石造りの門と鳥居(元、奥社の鋳抜門・鳥居)は、奥社の山中に埋められていたが、昭和42年(1967)にそれらを発掘、現在は東照宮宝物館の脇に復元されている手前には、松尾芭蕉句碑がある。」(※)
奥社拝殿は建物全体を真鍮や銅の板で覆い、その上から黒の漆が塗ってある。黒一色の地味な外観に対して、内部は金箔の柱、極彩色の鳳凰-ほうおう-など豪華な仕様になっている。
東照宮の最奥部には、東照宮の祭神である徳川家康の宝塔がある。宝塔は高さ5m余、八角九段の石段の上に立てられ、朝鮮国から贈られた鶴のローソク立てなとが置かれている。その前には葵の紋がついた鋳抜門がある。
宝塔は、東照宮の最奥部には、東照宮の祭神である徳川家康の宝塔がある。宝塔は高さ5メートル余、八角九段の石段の上に立てられ、朝鮮国から贈られた鶴のローソク立てなとが置かれている。その前には葵の紋がついた鋳抜門がある。
御本社を修理する際にご祭神をお移りししてお祀りする御殿で、現在の社殿は寛永16年(1639)の建立。仮殿が常設されているのは全国の神社の中でも当宮のみです。
【2023年 日光東照宮の流鏑馬(秋季大祭)】
小笠原流一門による流鏑馬奉納、4年ぶりの実施です。
写真連写と動画4倍スローの編集動画です。