水戸八幡宮(白幡山八幡宮)は康平3年(1060)の創祀と伝えられ、久慈郡太田郷の鎮守であったが、佐竹義宣が太田から水戸へ移った際に守護神として遷祀し、徳川光圀の代に那珂西に移建され、宝永4年(1707)に現在地に遷祀された。
白旗山八幡宮のオハツキイチョウは、葉の先に実を結ぶこの銘木は、本邦五本の中に数えられ樹齢700年、しかも樹勢誠に見事である。全国第一の珍と称せられる所以である。
本殿は、人母屋造、和様・唐様折衷の室町時代の建物で、応神天皇・神功皇后・姫大神の三柱をまつっている。400年の風雪を経た今日、尚、安土桃山時代の荘厳な姿で現存している。
「弘道館は水戸藩九代藩主徳川斉昭の発意により、藤田東湖や会沢正士斎らの意見を用いて創立された藩校で、天保12年(1841)の創立以来、多くの人材を教育して後期水戸学の中心となった。尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた。」(※)
天保12年(1841)の弘道館創立時に建てられた正門である。本瓦葺き四脚門という建築様式で、屋根瓦には葵の紋がある。藩主の来館や諸儀式を行うときのみ開門した。門柱や扉などにみられる傷跡は、明治元年(1868)におきた弘道館の戦いと呼ばれる藩内抗争の銃撃戦でできた弾痕である。
徳川斉昭の御手植の黒松は、三代目である。
「当時は正庁(講義や試験が行われた大広間がある)を中心として、文館(現在は梅林の公園)と武館を配し、天文・数学・地図などの屋形と多くの附属建物・養牛場・薬草園をもつ医学館などがたち並ぶ。
ここは、武術の試験が行われたところである。藩主や重臣は、正庁正席の間から対試験での試験の様子をご覧になった。藩校当時、隣接する水戸三の丸小学校の敷地には武館が建っていた。武館は三棟からなり一棟は撃剣場で一刀流・水府流・神道無念流の道場、一棟は槍術道場で宝蔵院流二派と佐分利流の道場、一棟は居合、柔術・長刀などの稽古場である。」(※)
「藩主の休憩所であり、五郎磨・八郎磨ら諸公子の学問所、江戸幕府最後の十五代将軍徳川慶喜が謹慎した部屋のある至善堂は、奇跡的に戦災を免れて、今なお往時の姿をとどめている。
文明夫人の歌碑は、弘道館が創立されたとき、玄関の前に御手植の黒松とともに並び植えられた桜のひこばえを、当時弘道館の司史であった小澤三次郎敏行がいただいて大切に植えておいたところ、非常にきれいに咲いたので、文明夫人がその花を賞でて次の歌を歌われた。
天(あま)さかるひなにはあれとさくら花
雲のうへまでさき匂はなん」(※)
「水戸藩は石高35万石と徳川御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)中最下位で、格下とみられるが、御三家で唯一「定府」という江戸定住を義務付けられていた。万一の際に将軍を補佐するためだったといわれているが、そのため、頼房以来、水戸藩主は参勤交代をせず、江戸に定住することとなった。」(※)
佐竹氏の城郭拡張によって二の丸・三の丸が築かれた時、慶長元年(1596)にこの堀に掛けられた橋で、水戸藩初代藩主徳川頼房が修築してから大手橋と称せられた。
「水戸城は水戸駅の東方約500mにある水戸城は、北側が那珂川、東側はもと湿地、南側は千波湖で西側は丘陵地帯と、三面が水と湿地で囲まれた浮島のような状態で、自然の要害をなしていたところに構築された。現在の県立水戸第一高等敷地に、鎌倉時代の初め、馬場資幹が館を築き、常陸大掾氏の北方の拠点となったが、室町時代中期(15世紀前半)に、西方河和田から進出してきた江戸道房に攻略された。江戸氏はこの地の整備をはじめ、城下町の端緒を開いた。やがて天正18年(1590)、常陸太田から佐竹義宣が進出して江戸道房を滅ぼし、義宣は水戸城にはいってからさらに城郭の規模を拡充するとともに、西側丘陵を開発して、城下町を形成していった。しかし関ヶ原の戦いのあと、義宣は徳川家康から秋田移封を命ぜられた。わずか13年の水戸城在住である。」(※)
「全国支配をめざした徳川家康は、水戸を東北諸大名に対する防御・牽制の拠点として重視し、慶長7年(1602)に5子武田信吉、慶長8年(1603)に10子徳川頼宣、そして慶長14年(1609)12月には11子徳川頼房を、あいついで水戸城主に封じた。この頼房によって、水戸城は3度にわたって大改修が行われ、近代城郭として整えられた。堀の石垣も設ける計画はあったが、技術不足や財政難のため中止となり、そのままとなった。」(※)
「薬医門は旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、形式は正面の柱の間が三つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門、二つの脇扉がついている。薬医門とは、扉を支えている本柱とその後にある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面の姿は対称形ではない。
JR水郡線は、本丸跡にたつ水戸第一高校正門へ通じる本城橋下の空堀を走っている。薬医門は旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、形式は正面の柱の間が三つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門、二つの脇扉がついている。薬医門とは、扉を支えている本柱とその後にある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面の姿は対称形ではない。」(※)
水戸の生んだ不朽の傑人水戸黄門光圀(義公)は、徳川頼房の第3子で寛永5年(1628)6月10日、家老三木仁兵衛之次の邸に生まれた。
母は谷氏(靖定夫人)といい、義公の生誕を前にこの屋敷に一粒の梅の実をまいた。義公生誕とともに芽生え、成長とともに育ち、寛文7年(1667)義公40才の春、ここに賞花の宴を催し「朽残る老木の梅も 此宿のはるにふたたび あそぶ嬉しき」と詠んだ。
「水戸駅西側高台に、「権現様」で親しまれている水戸東照宮がある。元和7年(1621)、徳川頼房が父家康の霊をまつったものである。往時、家康忌の4月10日には祭礼が盛大に行われた。頼房奉納の家康愛刀、備前国一文字派包作の太刀、同吉房の太刀・大薙刀のほか、水戸城門につるして時刻を知らせたという常葉山の時鐘(光圀の命で鋳造)、弘化2年(1845)、徳川斉昭の命によってつくられた安神車などがあり、境内には横綱常陸山の碑が立っている。昭和11年(1936)には、頼房もあわせて祭祀された。」(※)
碑は野口雨情生誕百年を記念し、昭和58年(1983)5月29日、雨情文学のふるさとこの地に建立された。大正4年当官御祭神徳川家康公没後300年祭が盛大に行われ、大層華やかだったことがうかがえる。