ゆかりの地
十五代将軍徳川慶喜は、天保8年(1837)9月29日、江戸の小石川水戸藩邸(後楽園)で九代藩主徳川斉昭の七男として生まれた。母は斉昭の正室で、有栖川宮熾仁親王の第十二王女の吉子女王。幼名を七朗磨といい、「男子は国元で教育する」という斉昭の教育方針により水戸で育てられ、帝王学をたたき込まれた。弘化4年(1847)9月、十二代将軍徳川家慶の内密の意向て御三卿一橋家の世継となり、昭致と名乗る。12月には元服して、家慶の一字を賜り、慶喜と改名した。
最後の十五代将軍徳川慶喜は、慶応2年(1866)、この城で将軍職を拝命し、翌年には二の丸御殿大広間で大政奉還を発表した
谷中霊園は、天王寺霊園、都立谷中霊園、寛永寺墓地の総称である。十五代将軍徳川慶喜の墓(1837~1913、都史跡)がある。それ以前の将軍が、増上寺、寛永寺霊園に葬られているのと異なるのは、最後の将軍という配慮からという。