東叡山寛永寺史跡めぐり
(上野)

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mark寛永寺(かんえいじ)
根本中堂
根本中堂

 「江戸時代の寛永寺(天台宗)は、上野の山一体の広大な寺地を有する36ケ院の総称である。その本坊は、寛永2年(1625)天海(慈眼大師)を開山として創建された。関東の比叡山たる東叡山の山号は川越の喜多院から移して、江戸城の鬼門(東北)を鎮護する祈祷所とした。」()

虫塚
虫塚
勅額「瑠璃殿」
勅額「瑠璃殿」

 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものです。

三葉葵紋
三葉葵紋
鬼瓦
鬼瓦

【寛永寺 徳川将軍御霊廟】

特別参拝者の皆さん
特別参拝者の皆さん
特別拝観パンフレット
特別拝観パンフレット

 特別参拝では、根本中堂にて法楽の後、徳川将軍御霊廟を担当の方が説明しながら案内していただけます。(申込は、書面による申込み、約1時間30分)
 拝観場所は、常憲院殿(五代綱吉公)・有徳院殿(八代吉宗公)・温恭院殿(十三代家定公)・天璋院殿(十三代御正室)などがある。

徳川綱吉(常憲院)霊廟勅額門
徳川綱吉霊廟勅額門 (国重要文化財)

 「五代将軍徳川綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・四代将軍徳川家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63歳で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と讃えられたが、今日では「生類憐れみの令」などを施工した将軍として著名である。」()

霊廟勅額門
霊廟勅額門
徳川家綱(厳有院)霊廟勅額門
徳川家綱霊廟勅額門(国重要文化財)

 四代将軍徳川家綱は、慶安4年(1651)4月父・家光の死に伴って、わずか10歳で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39歳で没した。法名を厳有院という。病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。

開山堂(両大師)
開山堂(両大師)

 国立博物館の東側に、両大師がある。平安中期の天台座主良源(慈恵大師)を祀る慈恵堂を移した現在の本堂(寛政4年(1792)再建)と、寛永寺の開山天海(慈限大師)を祀る開山堂(天明元年(1781)再建)があることから、両大師と呼ばれている。正保元年(1644)建造の奥の院には、木造天海僧正坐像が安置されている。

山門
山門
阿弥陀堂
阿弥陀堂

青銅灯籠
青銅灯籠
銅鐘
銅鐘

 境内の青銅灯籠と銅鐘は、ともに徳川家光(大猷院)霊廟に奉納されたものである。

御車返しの桜
御車返しの桜
幸田露伴旧宅の門
幸田露伴旧宅の門

 この桜は、1本の木に一重と八重の花が同時に咲く。後水尾天皇が京の寺で花見を終えた帰路、花の余りの美しさに牛車を返して、再びご覧になったことから、この名前がある。
 明治の文豪幸田露伴(1867~1949)の旧宅の門で、谷中にあったものを移築したものである。瓦葺の簡素な腕木門で、柱と梁、垂木など総て丸太造で、明治期のしもた(仕舞屋)の風情をよくとどめている。

寛永寺旧本坊表門
寛永寺旧本坊表門(国重要文化財)

 両大師堂の東側の黒塗り山門は、寛永寺旧本坊表門が移建されたもので、かつては国立博物館の正門の位置にあり、博物館の表門として使われていたことがある。上野戦争で奇跡的に焼け残ったが、弾痕の跡が数多く見られる。

【上野公園】

清水観音堂
清水観音堂(国重要文化財)

 清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台塗りのお堂で、寛永8年(1631)天海により建立された。また、御本尊も 天海が清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏となっている。

人形供養塔
人形供養塔
秋色桜
観音堂裏手の秋色桜

 堂内右手の子育観音は、古くから子授けの信仰を集め、子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納し供養されてきたが、現在では家庭で愛されせくなった人形に感謝し供養する為にも多くの方々が持参されている。観音堂の裏手には、人形供養塔が建立されている。

時の鐘
時の鐘

 「松尾芭蕉が詠んだ句(花の雲 鐘は上野か 浅草か)はここの鐘のことである。
 時の鐘は、はじめ 江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって、日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。
 元禄以来、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天龍寺などにも置かれた。新宿天龍寺の時の鐘・市谷亀岡八幡宮の時の鐘とともに江戸三名鐘の一つである。
」()

天海僧正毛髪塔
天海僧正毛髪塔

 天海僧正は、寛永20年(1643)10月2日に百八歳という長寿を全うされた。墓所は日光山輪王寺慈眼堂御廟にあるが、当山には山内子院の本覚院第一世の晃海が供養塔を建立し、後に同院に伝来されていた毛髪を納めた宝塔も建立された。

現在の上野大仏
現在の上野大仏
パゴダ(仏塔)
パゴダ(仏塔)

 「上野大仏は、寛永8年(1631)越後の国村上城主堀直寄が自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。明暦・万治年間(1655-61)には、木食浄雲師により青銅大仏に改められた。その後、大正12年(1923)の関東大震災によって仏頭が落ち、寛永寺にて保管、仏体は解体され第二次世界大戦時に献納された。昭和47年(1972)に寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置された。
 昭和42年(1967)6月に建立された白亜のパゴダ(仏塔)は、寛永寺の旧薬師堂本尊の薬師三尊像(薬師如来像、左に月光菩薩、右に日光菩薩)が安置されている。
」()

彰義隊の墓
彰義隊の墓
桜並木
桜並木

 「十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年(1868)、大政奉還をして 寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を破滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。
」()

秋色桜
秋色桜
五重塔
五重塔(国重要文化財)

 秋色桜の句碑
 井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔
 五重塔は寛永16年(1639)に焼失。その年のうちに再建されたのが今も残る五重塔で、丹漆塗りの外観が印象的だ。もともとは上野東照宮の境内に建てられていたが、明治時代に寛永寺に属することになった。

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