散歩コース
四ッ谷駅(JR中央線)~西念寺~須賀神社~四谷大木戸跡~花園神社~新宿駅(JR中央線) 中央本線四ッ谷駅ホーム上にかけられている鉄橋が四谷見附橋である。
四谷見附は高麗門を置き、渡櫓を配置した枡形門であったが、現在は一部の石垣だけが保存されている。見附とは、江戸城内外部の城門の警備、すなわち「見附る」とか「監察する」などから出たことばだとされ城門番兵の見張所のことだが、一般には城門そのものを意味する。
中央線に沿った堀が江戸城外掘跡で、四ッ谷・市ヶ谷駅付近にあり、新宿区と千代田区との境をなしている。この外掘は寛永13年(1636)に完成したが、渓谷・沼沢・窪地など自然の地形をたくみに利用しており、掘り出した土は土塁などをつくるのに再利用した。
四谷見附交差点から、新宿通りを西へ約200m行った四谷霊廟入口から左へ150mほど入ると西念寺がある。この若葉町一帯は、もと伊賀町と呼ばれ、伊賀衆の組屋敷があった所で 西念寺は、彼らの組頭服部半蔵正成の菩提寺として知られる。
「服部半蔵は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、徳川十六神将の一人に数えられる武将である。「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行八千石を賜り、同年の家康の江戸の江戸入府後は、江戸城西門近くに居をを構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。」(※)
西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男松平信康の菩提をともらうため、文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔である。
須賀神社は牛頭天王と、稲荷大明神という二社である。古くは、四谷見附外に祭ってあったのを、寛永11年(1634)の外堀の開堀のために、現在地に、移転したものである。明治維新後須賀神社と呼ばれるようになった。
拝殿に掲げられている「三十六歌仙の絵」は大岡雲峰が天保7年(1836)73歳の時に画かれたものだといわれる。歌は千種有功の筆である。三十六歌仙とは、平安時代の中頃の歌人藤原公任が作った「三十六人撰」に基づくものである。
甲州街道の四谷見附から内藤新宿に至る途中の、左右が谷になっている場所に設けられ、初めは道の中央に間口2間半の木戸が置かれ番所を置いて駄送の米などを検問した。道の両側に石垣を築き、高札場もあった。一般人の通行は自由であったが、夜10時(四ツ)になると木戸を閉じ両わきの潜戸から通行させて、取締りの役割を果たした。寛政4年(1792)に木戸は廃止された。大木戸から内藤新宿まで石畳になっていたが、これは明治初年まで残っていたという。
江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたとう。
上野寛永寺の時の鐘・市谷亀岡八幡宮の時の鐘とともに江戸三名鐘の一つとして江戸市民に時刻を知らせる時の鐘として親しまれていた。ふつうの鐘より少し早めに鳴らしたことから「追い出しの鐘」と呼ばれていたという。
やぐら時計は、時の鐘とともに、牧野備後守貞長が寄進したもので、この時計をもとに鐘を撞いたという。
ここはもと尾張徳川家の別邸で、その邸内の花園に祀った稲荷神社がもととなっている。境内には、内藤新宿氏子一同寄進の銅製唐獅子、歴代の名主高松喜六奉納の石灯籠や二つの芭蕉句碑などがある。
関東三大酉の市(鷲神社・長国寺、花園神社、大國魂神社)の一つである。
散歩コース
四ッ谷駅(JR中央線)~西念寺~須賀神社~四谷大木戸跡~花園神社~新宿駅(JR中央線)