散歩コース
上野駅(JR山手線)~東京国立博物館~国立科学博物館~東京芸術大学~上野駅(JR山手線) 「わが国最初の東京国立博物館は、明治4年(1871)湯島聖堂大成殿に設けられた。明治14年(1881)寛永寺本坊跡に、ジョサイア・コンドルの設計によるレンガ造2階建(当時の日本最大のレンガ造建物)の上野博物館が完成し、ここに移された。明治33年(1900)帝室博物館と改称された。
日本ギャラリー1階は彫刻、陶磁、刀剣など、ひとつの分野別展示と企画展示で構成されている。2階は、縄文時代から江戸時代まで、時代を追って国宝や重要文化財などの名品を展示する「日本美術の流れ」になっている。 本館北側庭園は、春秋の年2回一般開放されている。」(※)
平成館の2階は特別展専用の展示室。1階は考古展示室、企画展示室、講堂、ラウンジ、ドリンクコーナーなど。平成11年(1999)開館。
東洋館は中国、朝鮮半島、東南アジア、西域、インド、エジプトなどの美術と工芸、考古遣物を展示。別棟にレストランがある。昭和43年(1968)開館。谷口吾郎設計。平成25年(2013)1月リニューアルオープンした。
明治41年(1908)には皇太子(大正天皇)御成婚記念として別館の 表慶館(コンドルの弟子片山東熊の代表作)が完成した。
明治11年(1878)に奈良・法隆寺から皇室に献納された宝物約300件を収蔵。中2階は関連図書などが閲覧できる資料室。1階にレストラン。現在の建物は平成11年(1999)開館した。
国立科学博物館は昭和6年(1931)設立。恐竜など、自然科学の資料を展示している。
国立西洋美術館は、松方幸次郎がヨーロッパで収集したいわゆる松方コレクションをフランス政府から寄贈されて、昭和34年(1959)に設立した。建物の設計はル・コルビュジエによる。前庭にロダンの作品「考える人」「カレーの市民」「地獄の門」などを展示している。
昭和24年(1949)5月、国立学校設置法の公布施行に伴い、「東京美術学校」と「東京音楽学校」が統合され、東京芸術大学として設立された。その母体は、明治20年(1887)10月開校の東京美術学校と、同23年(1890)2月開校の音楽学校だった。
【美術学部】
正木直彦は明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、 東京美術学校(現、東京芸術大学)の第五代校長を1901年から1932年までの長期にわたって務めた。
高村光雲は明治22年(1889)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、帝室技芸員に任ぜられる。代表作に上野公園の西郷隆盛銅像がある。
岡倉天心は、。明治22年(1889)、東京美術学校(現、東京芸術大学)の設立に尽力し、翌年には校長に任ぜられたが、明治31年(1898)、いわゆる美術学校事件で職を辞し、橋本雅邦・横山大観らを率いて日本美術院を設立して美術運動を推進した。
津田信夫は、東京美術学校が公共事業として注文を受けた日比谷公園の鶴の噴水やアーク燈、日本橋の装飾など公共施設の鋳造を多く手掛け近代的な都市づくりに貢献した。
橋本雅邦は絵師。狩野芳崖とは少年期より親友。フェノロサに認められ、東京美術学校教授に就任。日本美術院創立にも参加した。
【音楽学部】
「旧東京音楽学校奏楽堂は、明治23年(1890)東京音楽学校(現、東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念的な存在である。中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音楽上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。」(※)
滝廉太郎は、明治時代にドイツに留学して作曲やピアノを学び、音楽の分野で、日本の近代化に大きな役割をはたした。滝家は日出藩(現、日出町)の家老をつとめた名家で、祖父平之進は帆足万里の門弟、父吉弘は大久保利通の秘書である。
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