法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られている。その創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳」の縁起文によって知ることができる。
法隆寺参道の松並木を通り抜けると、正面は法隆寺総門の南大門がある。平安時代中期、中門の南の石段の上にあったものを現在地に移し、室町時代に焼失したものを再建したものである。門の空間からは、塔や金堂がすっぽりと収まり、大変美しくみえる。
中門は深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものである。重厚な扉と左右に立つ塑像の金剛力士像は、東西にのびた廻廊の連子窓と対象的な組み合わせで、並列して建つ五重塔と金堂を壮麗に包み込んでいる。
五重塔は釈尊の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされている。高さは約32mで、わが国最古の五重塔として知られている。
「法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂が金堂で、この建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像、太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像、母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像、それを守護するように、樟で造られたわが国最古の四天王像が、邪鬼の背に静かに立っている。」(※)
東西の廻廊の外側には、それぞれ東室・西室という南北に細長い建物がある。それらは僧侶の住居でありましたから僧房と呼ばれている。とくに鎌倉時代に聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像を安置するために、東室の南端部を改造したのがこの聖霊院である。
正岡子規句碑
柿くえば、鐘が鳴るなり 法隆寺
正岡子規は、伊予国松山藩士の子として生まれた。少年期より漢詩や戯作に興味をもっていた。24歳で東京帝国大学哲学科に入学したが、翌年国文科に転科、この頃から「子規」の名で俳句を発表。子規は新聞「日本」の記者となり、俳句を中心とした文芸活動を始める。
行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院という。その中心となる建物がこの東院夢殿である。八角円堂の中央の逗子には、聖徳太子等身の秘仏久世観音像、聖徳太子の孝養像、乾漆の行信僧都像、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像などを安置している。
聖徳太子の母君穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺である。法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われる。国宝木造菩薩半跏像は其の金堂の本尊であり、天寿国繍帳残闕は、其の講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されている。