唐門は、二の丸御殿への正門で、御殿の南側に位置している。桃山時代末の慶長7年から8年(1602~1603)に建造され、寛永2年から3年(1625~1626)の改修で現在の姿となった。
「慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、三代将軍徳川家光が、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)に完成したもので、家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻など、いわゆる桃山文化の全貌を見ることができる。武家風書院造の代表的な御殿建築で、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけ雁行に並んでいる。」(※)
江戸幕末には公武の緊張の高まりの中で、十四代将軍徳川家茂が2度上洛して二条城に滞在した。最後の十五代将軍徳川慶喜は、慶応2年(1866)、この城で将軍職を拝命し、翌年には二の丸御殿大広間で大政奉還を発表した。
「二の丸御殿庭園は古来からの造庭術にしたがい、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、小堀遠州の作と伝えられている。庭は、寛永3年(1626)、池の南側に後水尾天皇の行幸御殿が建てられた際に改造されたといわれており、主に大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から見られるよう工夫されている。」(※)
本丸櫓門は、本丸関係では唯一天明の大火に焼け残ったものである。
「寛永3年(1626)三代将軍徳川家光の命により増築されたもので、もとは、五層の天守閣が高くそびえ壮麗を誇っていたが寛延3年(1750)に雷火により焼失、また天明8年(1788)には。大火による類焼で本丸内の殿舎をもなくしました。現在の建物は、京都御苑内にあった旧桂宮御殿を明治26年~27年(1893~94)にわたり、ここに移し建てられたものである。」(※)