極楽橋の名前は大坂本願寺を極楽浄土に見立てて、そこに至るための橋という意味でこの地を大坂本願寺の本山として以来、その名前は引き継がれている。
「豊臣秀吉は城内に里山の静寂な風情を持った曲輪を設け、千利休等と共に茶会を楽しんだといわれており、現在は刻印石広場となっている。
大坂夏の陣、 徳川家は豊臣家の息の根を止めるために、大坂に向け進軍を開始した。対する豊臣方は、すでに大坂城を丸裸にされてしまっているのでもはや篭城策はとれない。残されてた道は、正々堂々と勝負に打って出るしかなかった。しかし、兵力差は歴然で、徳川方3万5000に対して豊臣方は約半分。しかも大坂方の兵たちの大半は寄せ集めの浪人で戦意は低い。まともに戦えば徳川方の勝利は確実である。真田幸村の決死の突撃などで、一時は徳川本隊が追い詰められる場面もあったが、その真田幸村も討ち取ると、総崩れとなった豊臣軍を大坂城へと敗走せしめた。慶長20年(1615)5月8日、総大将・豊臣秀頼は母・ 淀殿とともに自刃し、ここに 豊臣家は滅んだ。」(※)
「現在の大坂城天守は昭和6年(1931)、市民の寄付金により再興された。大坂夏の陣図屏風や同時代資料をもとに設計された復興天守で、鉄筋コンクリート造り5層8階。内部は博物館となっており、豊臣秀吉自筆の和歌や秀吉所用の武具・馬具、美術品などが多数収蔵されている。
圧巻は黄金の茶室だ。吉田兼見や神屋宗湛など同時代人の日記、その他の諸資料を総合して推定復元した原寸模型で、全体は檜材を用い、釘は1本も使わない完全組み込み式である。」(※)
「「桜門桝形」は城内随一の巨石群で構成されている。真正面が蛸石という城内第1位、左側が振袖石で城内第3位、その他碁盤石等で出来ている。桝形の上には多聞櫓があったが明治維新時の戦火で桜門と共に焼失した。
桜門は本丸へ入る正面玄関で、天守閣の真南に位置する。桜門の名前の由来は豊臣秀吉時代に門の近くに見事な桜並木があったためで、この桜門はその名が引き継がれている。」(※)
二代将軍徳川秀忠の命により、元和6年(1620)から10年の歳月をかけて全面的に再築された。寛文5年(1665)に天守を落雷によって失ったが、幕府の西日本支配の拠点として大きな役割を果たした。明治維新の動乱で多くの建造物を焼失した。
金蔵は徳川の大阪城として城内に現存する唯一の土蔵の宝物倉庫で幕府の御用金を保管する役割を果たした。三代将軍徳川家光の時に築造され、その後、天保8年(1837)に改修されて今日の姿になっている。