ゆかりの地
天文5年(1536)、豊臣秀吉は、木下弥右衛門の子としてこの地に生まれた。幼名は小竹、あるいは日吉丸。姉智子(関白秀次生母)は同父同母の姉、小一郎秀長(大和大納言)と朝日姫(徳川家康正室)は、異父同母の弟姉である。出生地については、区内下中村町という説もある。此の井戸は、秀吉生誕の当時近郷に類のない清水の溢れる井戸と伝えられる。此処に秀吉の依頼によって寺を建立した時この清泉の湧出を意味として常泉寺の寺号を定めたと当山の縁起書に記されている。
永禄9年(1566)9月、木下藤吉郎は濃尾の地理に詳しい蜂巣賀小六らの協力を得て、墨俣築城に着手した。その方法は、木材など必要な資材や道具をあらかじめ河川の上流に準備しておき、木曽川・境川の水運を利用して墨俣に運びいれ、一気に築城するという斬新なものである。9月12日、藤吉郎以下2000の兵が築城にとりかかり、13日の夕刻早くも馬柵と櫓がほぼ完成した。
豊臣秀吉は、天正元年(1573)の小谷城の戦いで戦功を上げ、浅井氏旧領の北近江3郡を与えられた。当初小谷城に入った秀吉だが、山城のため領国統治に不向きだとして、今浜と呼ばれる地に新たな居城を築城した。のちに今浜を「長浜」と改め、自身も木下姓から羽柴姓を名乗るようになった。
石垣山は、小田原市早川集落の西北、箱根外輪山の東端に位置し、標高241mで、山頂には豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるための本営として築かれた城の跡、太閤一夜城址がある。秀吉の小田原攻め(豊臣軍vs北条軍)が、北条軍に与えた影響は大きく、それまで秀吉はたびたび降伏勧告をしてきたが、それに応じなかった北条氏も、この城が完成して間もない7月7日、ついに小田原城を明け渡し、滅びてしまった。
現在の大坂城天守は昭和6年(1931)、市民の寄付金により再興された。大坂夏の陣図屏風や同時代資料をもとに設計された復興天守で、鉄筋コンクリート造り5層8階。内部は博物館となっており、豊臣秀吉自筆の和歌や秀吉所用の武具・馬具、美術品などが多数収蔵されている。