豊臣秀吉 出生の地「中村公園」

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mark中村公園(なかむらこうえん)
大鳥居
大鳥居
豊臣氏の家紋(五七の桐)
豊臣氏の家紋(五七の桐)

 中村公園駅の3番出口をでると、目の前に地元の人びとが「赤鳥居」または「中村の大鳥居」と親しみをこめてよんでいる鉄筋コンクリート製の朱色りの鳥居が見える。鳥居は、大正10年(1921)にこの中村の地が名古屋市に編入されたのを記念して、地元の人びとが豊国神社の目印になる大鳥居をたてる計画をたて、8年後の昭和4年(1929)に完成したもので、大きさの点では日本有数である。

豊国神社
豊国神社

 豊国神社は、豊臣秀吉の出生地と伝えられるこの地に、明治18年(1885)秀吉の偉業をしのんでつくられたものである。公園の中央に、有志が発案し当時の国貞廉平の尽力を得て総祀された豊国神社が立っている。5月18日の例祭(太閤祭)前の日曜日には、子どもの成長を願う稚児行列が繰り広げられる。

日吉丸となかまたち
日吉丸となかまたち
太閤池
太閤池

「豊公誕生之地」碑
「豊公誕生之地」碑
豊太閤産湯の井戸
豊太閤産湯の井戸

 「天文5年(1536)、豊臣秀吉は、木下弥右衛門の子としてこの地に生まれた。幼名は小竹、あるいは日吉丸。姉智子(関白秀次生母)は同父同母の姉、小一郎秀長(大和大納言)と朝日姫(徳川家康正室)は、異父同母の弟姉である。出生地については、区内下中村町という説もある。此の井戸は、秀吉生誕の当時近郷に類のない清水の溢れる井戸と伝えられる。此処に秀吉の依頼によって寺を建立した時この清泉の湧出を意味として常泉寺の寺号を定めたと当山の縁起書に記されている。」()

常泉寺
常泉寺
御手植のヒイラギ(柊)
御手植のヒイラギ(柊)

 「豊国神社の約100m東に常泉寺(日蓮宗)がある。太閤山と号し、慶長年間(1596~1615)に加藤清正一族の円住院日誦上人が創建したという。境内には、秀吉誕生のときに使われたと伝えられる産湯の井戸や秀吉の手植えと伝えられるヒイラギ(柊)がある。豊臣秀吉は、1590年小田原攻め凱陣の時、この地に立ち寄りて一宿なさる。小早川隆景・加藤清正を呼召され、寺の建立ありたしと見れば、私11歳の時植えた置いた柊が繁茂せり、柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり大切に致べしとして、手づから竹を立添えられる。以来「幹」が衰えても下枝が育ちを繰り返しながら現在に至る。」()

豊臣秀吉像
豊臣秀吉像
馬藺後立兜
馬藺後立兜

 「天文6年(1537)、尾張中村に生まれた木下藤吉郎(のちの秀吉)は、10代半ばに家を出て、放浪生活の後、信長に仕えた。最初の役目は草履取り、あるいは近習の使い走りであったといわれる。なお、仕官の時期を天文54年(1554)ごろとする説もある。秀吉は本能寺の変後、他の織田信長の家臣達をおさえて後継者となった。そして、四国・九州・関東・東北を平定し全国統一を達成する。秀吉がかぶったと伝えられる兜。天正15年(1587)の九州攻めの際に、蒲生氏郷の家臣、西村重就にあたえたものという。当時の武将たちは、このような目立つ、ユニークなデザインの兜を用いた。馬蘭とはアヤメの一種で、その葉をかたどった飾りである。」()

秀吉清正記念館
秀吉清正記念館
美術工芸品の展示
美術工芸品の展示

 昭和42年から平成元年まで開館していた豊清二顕彰館を改築・名称変更し、平成3年新たにオープンした。中村図書館、中村文化小劇場と同じ中村公園文化プラザにある。地域に根ざした特色のある博物館として、豊臣秀吉・加藤清正と彼らの生きた時代に関する資料を中心に収集・保管し、展示している。

織田信長画像
織田信長画像
豊臣秀吉画像
豊臣秀吉画像

 秀吉清正記念館の常設展では、中村の地で生まれた豊臣秀吉の一生を、実物・複製・模型・パネル・ビデオなどを使い展示している。導入部分として秀吉・清正の生きた時代を模型により概観した後、実物・複製資料等により、織田信長の登場から関ヶ原の合戦・大阪の陣頃までをわかりやすく紹介している。

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