「清洲(須)城は、応永年間(1394~1428)に尾張国守護斯波義重により造営されたといわれる。城下町は文明8年(1476)に尾張守護所が下津(現在の稲沢市)から移り、弘治元年 (1555)、織田信長が主家を破って入城して以来、慶長15年(1610)の「清洲越」まで、尾張の中心都市として栄えた。清洲城は信長の拠点であり、本能寺の変後の、織田家の相続をめぐる「清須会議」や、小牧・長久手の戦いの際の信雄の本陣などとして、戦国史の転換点に重要な役割を果たした。」(※)
永禄3年(1560)織田信長が、桶狭間へ出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納された塀をモデルにしたものである。天主閣からは遠くに、名古屋駅のJRセントラルタワーズが見える。
「郷土の英傑・織田信長の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定ほ目指す武将が重要拠点としていた清須城。平成元年に現在の場所に清洲城として再建整備された。金色に輝く鯱を屋根にいいだく天主閣は、御殿の内部に「黒木書院」「芸能の間」を配した芸能文化館、五条川に架かる赤い大手橋とともに、清洲市のシンボルとなっている。朝日銅鐸は弥生時代後期、朝日遺跡南区域(集落域)に近接して発見された。大きさ高さ46.3cm、現状での幅26.3cm東海地域に広く分布する「三遠式銅鐸」の原形の一つと考えられる。」(※)
市民との交流を通じて、清洲の歴史と文化に親しみ、楽しむための施設である。「芸能の間」は、地元の伝統芸能の伝承・育成や研修などにご利用できる。「黒木書院」では、戦国体験・記念撮影コーナーで、清洲甲冑工房で製作された甲冑や、打ち掛けを着て記念撮影を楽しむことができる。御殿の庭は、白砂敷きの枯山水とし美濃石を配石しポイントとして水琴窟を設けてある。
天主閣の金鯱は、青銅製で金箔三枚押しである。
天主閣1階では、旭日遺跡に代表される古代から中世、尾張国の首府であった時代を経て、「清洲越」から平成17年の清洲市誕生、平成21年の春日町合併にいたる清洲の歴史をダイジェストで展示。2階では、清洲城を中心に「関東の巨鎮」と言われた清洲城下の都市機能の全貌を知る「清洲城と城下町」がテーマの展示。
「織田信長は、尾張の武将、織田信秀の子として天文3年(1534)に誕生。父信秀は、勝幡城の一城主にすぎなかったが、やがて那古野城を奪い、尾張最大の勢力に成長する。ところが、信秀は42歳で急逝。父の遺志を継いだ信長は、尾張平定に乗り出した。弘治元年(1555)、居城を清洲城に移す。尾張のほぼ中央に位置し、鎌倉街道(のちの美濃路)などの街道が合流する清洲は古くから交通の要衝で、室町時代後期になると、清洲城は尾張守護の拠点として権威をもっていた。この年、清洲城主の織田信友の切腹に追い込んだ信長は那古野城から移り、新しい清洲城主となった。信長が在城していた当時の城は、石垣もない中世の居館程度であったと考えられている。」(※)
清洲城の対岸に位置する清洲公園。古木と若い樹木が混ざりあった清洲公園の緑を背景に、桶狭間の方向を見据えた織田信長の銅像がそびえ立ち。芝生が広がる広場は、安らぎの場となっている。