「関ヶ原合戦を契機に江戸時代となり大垣城は「戦いの城」から「行政の城」にと生まれ変わった。慶長6年(1601)石川康通が5万石で城主に任命され、その後寛永12年(1635)戸田氏鉄が攝州尼崎より入封するまでの35年間に石川三代、松平二代、岡部二代。松平一代と将軍に忠誠をつくした武将が栄転してきてはまた去っていった。大阪冬・夏の陣をへて徳川幕府の基礎がかたまってゆくとともに、大垣城が争奪の的とすることもなく、戸田氏大垣藩は西美濃に君臨して明治の版籍奉還まで235年太平の世が続いた。」(※)
大垣駅前通りを南にくだっていくと、大垣城のかっての外濠であった水門川にかかる新大橋を渡る。さらにいくと、右手に大垣城七口門の1つ、柳口門を移築した現在の東門がある。
「旧国宝であった大垣城天守と艮隅櫓は、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)7月29日の大垣空襲により、石垣のみを残しすべて焼失した。この鯱瓦は昭和34年に、市民の寄付により大垣のシンボルとして再建された天守の鯱瓦。関ヶ原の戦いでは、西軍の将石田三成が入城して拠点とした。しかし、東軍が赤坂宿の岡山に陣を構えたので、背後を断たれることを懸念して大垣城をでて、関ヶ原に布陣して破れ、大垣城は落城した。現在の天守閣を歴史博物館として一般公開されている。」(※)
「大垣城は、天文4年(1535)宮川安定が築城したといい、水門川の流れを外濠に利用して作られた規模の小さな城である。その後城郭の増築が行われ、天守閣は慶長元年、伊藤祐盛によって造営され、元和6年に改築されたという。この天守閣は、四重四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、歴史の上からも重要な役割を果たした。」(※)