ゆかりの地
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年(のちの石田三成)は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。
忍城は成田氏によって15世紀後半に築かれ、天文15年(1546)、関東一円の支配をめざす北条氏にくだった。天文22年(1553)には十六代当主上杉謙信に攻められたこともある。しかし、忍城の名を天下に知らしめたのは、天正18年(1590)の石田三成による水攻めである。城主不在にもかかわらず、小田原城が開城してから11日後にようやく開城となった。
石田堤の一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部である。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を流水させたと言われている。三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られた。