初代当主北条早雲公は、戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢威を及ぼした小田原北条氏五代の祖である。
二宮尊徳は江戸末期の農政家。通称、金次郎。人物を認められて小田原藩領下野桜町の荒廃を復興したことで知られる。その後、常陸その他諸藩、諸村の復興に農政家として寄与する活躍をした。
東口側のお城通りには、令和2年(2020)12月、宿場町の面影を残す複合商業施設「ミナカ小田原」がオープンした。
住吉橋は銅門枡形内仕切門と馬屋曲輪の間にかけられた橋。
御茶壺曲輪は、元禄期(1688~1704)、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられことから御茶壺曲輪と呼ばれるようになった。
小峯橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在は石橋に架け替えられ、「御茶壺橋」の名でも親しまれている。
銅門は、小田原城二の丸の表門にあたる枡形形式の城門で、渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていたことから、この名で呼ばれている。
当時の工法により平成9年(1997)に復元された。
銅門礎石は、銅門で用いられていたと考えれている礎石。銅門土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち制作された。
ビャクシンは、株元周囲約3.9m、樹高15mと市内最大級で、市指定天然記念物になっている。
常盤木橋の前にある「イヌマキ」は、樹齢約520年以上、幹回り4.5mに及ぶ市内最大の巨木で、市指定天然記念物である。
本丸東側の本丸東堀は、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上の深さがあった。常盤木橋は、本丸と二の丸をつなぐ木製の橋であったと言われている。
6月に入ると、本丸東堀の花菖蒲園では、アジサイ(約2,500株)と花菖蒲(約7,000株)の花が咲く。
常盤木門は、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、常盤木門が小田原城のの本丸正門。門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来している。
本丸跡は、現在、城址公園として整備された。
小田原城の歴史は、大森氏が小田原地方に進出した15世紀初めごろからとされている。大森氏時代の城は、現在県立小田原高校がたっている東側の八幡山古墳とよばれる丘陵上にあった。明応4年(1495)に北条早雲が攻略し、大森藤頼を追放したのもこの城である。
後北条氏の居城となってからは、関東支配の中心拠点として拡張整備が行われ、二の九・三の丸と城地は拡大していった。
御用米曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪。曲輪には江戸時代の初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輪」などの名称で呼ばれる小田原城にとって大変重要に場所であった。
【桜】
桜の季節は、城内・お堀周辺の桜の花見客で賑わう。
二の丸の水堀に映える隅櫓は、本来はさらに高い石垣の上に建ち、奥行2間半折廻7間という規模と伝えられている。
【桜 ライトアップ】
LEDライト42台と12台のソーラーライトを駆使した『光に染まる夜桜~小田原城桜のライトアップ』が開催された。
【御感の藤 5月】
今日は好天気に恵まれた「北條五代祭り」で、藤棚の下で大勢の花見客が休憩をしていた。
「御感の藤は、二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治16年(1883)に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから、「御感の藤」と呼ばれるようになった。」(※)
【北條五代祭り 2010年】
小田原太鼓による出陣式、講談師、初代 北条早雲公には俳優阿藤快さんが特別出演。
【北條五代祭り 2003年】
パレードの中には、俳優の阿藤快さんやフリーアナウンサーの宮田めぐみさん(元ミス小田原)も特別参加、手を振って観客に応えていた。北條鉄砲衆による一斉発砲の様子も見応えがあった。
渡櫓門前の広場は、武者隊パレードを一目見ようとする人達が集まる。ただ、真夏日と思われるほどの晴天だったので、パレードを待つ時間が大変辛く感じられた。
パレードは初代の北條早雲隊を筆頭に、五代の北條氏直隊まで約30分ほど続く。
居神神社の神輿は、今から114年前(明治21年)に小田原藩、最後のお抱え大工である香川若狭藤原高之(文造)によって製作された。これまでに小田原城藩主御殿や箱根離宮など数多くの建造物を手がけてきたが、この神輿は高之最後の作品であり、お城大工の技術の全てが結集されている。
駅前周辺の通り(お堀端通り・代官町通り・高梨町通り・青物町通り・国際通り・大工町通り)では、まち衆隊や吹奏楽隊・民踊隊が賑やかに繰り広げられていた。
鳥居手前のアジサイが綺麗に咲きはじめていた。
「二宮金次郎(尊徳)は天明7年(1787)7月、栢山村(小田原市)の農家の長男として生まれました。4歳の時、酒匂川の氾濫で田畑を流され、苦しい生活の中、13歳で父が病死し、15歳で母が亡くなり、弟2人と別れ、伯父万兵衛家で暮らしました。金次郎は働きながら一生懸命勉学に勤め、多くの自然の法則や人生の生きる道を学びました。そして、23歳で一家の再興を成した後、小田原藩の家老服部家の財政立て直しや五常講という信用組合のようなものを試みたりしました。」(※)。
昭和3年(1928)、昭和天皇の即位御大礼記念として、神戸の中村直吉氏が寄進したもの。その後、これと同じ像は、全国の小学校などに向けて約千体制作された。
明治27年(1894)4月、小田原城に隣接する報徳二宮神社は二宮金次郎(尊徳)を祀る。
空堀は、左手の小峯曲輪(報徳二宮神社の境内)を囲む堀の北側の部分で、石垣を用いない土塁と空堀だけの、戦国時代の城の原形を留めている貴重な遺構である。