金目川は水無川、鈴川、渋田川など多くの河川と合流して相模湾に注ぐ。下流は花水川と呼ばれている。
国道1号線の花水橋から高麗大橋北あたりの金目川(花水川)両岸には、名木の桜並木が続く。
川沿いの道は、日本初のサイクリング専用道路になっている。
国道1号線を大磯へ向って歩き、花水橋を過ぎた辺りから高来神社の参道に入る。
慶覚院は、高来神社の手前にあり、「建治4年(1278)」銘のある地蔵菩薩像と、本地仏の一本造の千手観音像がある。千手観音像は破損が著しいが平安時代の作と考えられ、12年に1度子年の春に開帳されている。
江戸時代までは高麗神社と書かれ、神皇産霊神、瓊瓊杵尊、神功皇后、応神天皇がまつられている。伝承では神功皇后の三韓征討のころ、武内宿禰が三韓の神を移したのが始まりというが、実際には高句麗からの渡来人高麗若光らが大磯に移り住んだときに創建されたと考えられている。
青空の下、神輿堂の上に咲く満開の桜が綺麗です。
「現在廃絶した高麗寺の本尊である千手観音の祭りが、神仏分離令による影響で高来神社の春祭りの様相になった相模国3大市の一つに数えられる高麗寺市(こうらいじまち)は、毎年4月17・18・19日に実施され、江戸時代から大正の初め頃迄は「農具市」でしたが、現在は「植木市」になっている。この祭のなかで「山神輿」の行事がある。寛永21年(1644)4月17日より始まったと伝えられ、由来については不明ですが、高来神社(下宮)の神霊(みたま)を神輿に移し、麓から山頂の上宮(大堂)まで神輿を担ぎ上げるとしうもので、祭には大勢の人が集まるために地上の穢れを避けて山頂の上宮に仮宿するのだと言われている。神輿は祭りが終わった19日に再び山を降りる。」(※)
高来神社の裏山から、高麗山公園内にある東天照、大堂、八俵山の三峰を通る「大磯・高麗山のみち」を登り湘南平へ向った。桜の花見シーズンでもあり、すれ違う人も多かった。
高来神社のシイニッケイは、スダジイとヤブニッケイの二種が一体化した樹木です。幹の心材が腐朽しも頂上部が凹状になったスダジイの古木にヤブニッケイが根付き成長した結果、現在の樹形になったと考えられています。樹齢は幹下部のスダジイが300年以上、幹上部のヤブニッケイが150年前後と推定されています。全国各地で様々な合体木が見られますが、違和感無く一体化したものは珍しく、貴重なものといえます。(大磯町教育委員会)
高麗山は、長い歴史を秘めた名山であった。全山がうっそうとした臨海性常緑樹林に覆われ、中には樹齢3,400年の古木もあって、湘南に残された唯一の自然林であった。山ろくの高来神社は高麗神社や権現さんと呼ばれている。
かつては千畳敷きといわれたが、昭和33年(1958)4月から、現在の名で呼ばれている。北側は断層崖のため眺望は素晴らしく、平塚市街はもとより丹沢山塊や相模平野が一望できる。晴れた日には箱根や富士山の遠望も美しい。南側は傾動地塊のため、なだらかな丘陵が海岸線にまで達し、ここからは湘南の海が眺められる。
大島桜も多く植えられている。
湘南平(自然)のモニュメント的存在なのが、山頂広場の東側に立つテレビ塔(平塚テレビ中継所局)があった。テレビ神奈川(tvk)が昭和47年(1972)に建設、4脚の鉄骨造りで高さ70m。地上4mほどの部分には展望台がある。
岡野金次郎は明治7年(1874)に横浜で生まれた。日本山岳界のパイオニアとされ、日本人として初めて槍ケ岳登頂をはじめ、丹沢など数々の登山歴で知られた。晩年に平塚に移り住んだ岡野をたたえ、市は昭和36年(1961)に記念碑を建立した。
高麗山公園レストハウス展望台からは、富士山、湘南海岸、丹沢山系など全方向のパノラマ風景を楽しむことができる。
昨夜の寒波で、新雪が降り積もった美しい富士山が見られた。
展望台に設置してある望遠鏡からは、東京タワー・東京スカイツリーをはっきり望むことができた。
湘南平から、大磯駅へ向かう山道の途中に、遺跡「楊谷寺谷戸横穴墓群」が残っている。
大磯丘陵は、全国屈指の横穴墓の密集地域として知られているが、当地は特に濃密に分布地区に位置している。揚谷寺谷戸横穴墓群は古くから存在が知られており、早くも明治期には当時の研究者による本格的な調査が行われています。
揚谷寺谷戸横穴墓群は古墳時代後期に属し、27基の存在が知られている。内部構造は天井が屋根形を呈する家形横穴墓や、通常の横穴墓の奥に棺室を設けた棺室横穴墓など多様な形態がみられ、横穴墓の形態変還を考える上で、基準となる重要な横穴墓です。
化粧坂一里塚は、旅人の旅程の目安となり江戸日本橋より十六里の所に日陰で風よけなどで小休憩の場となる。高さ3m程の上に海側に榎を山側に栴檀を植えた。
化粧井戸は、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたと言われている。
虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂(現存)があり、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通っていたと思われる。