散歩コース
門前仲町駅(地下鉄東西線)~清澄庭園~深川芭蕉庵跡~日本橋~東京駅(JR東海道線)この地には紀伊国屋文左衛門の別荘があったといわれている。享保年間(1716~36)以降は下総関宿藩久世家下屋敷、明治初期には前島密(1835~1919、近代郵便制度の確立者)の屋敷となり、明治11年(1878)三菱財閥の創設者岩崎弥太郎(1834~85)が買い取って、別荘として造園した。
石庭は、岩崎家が自社の汽船で全国の名石を産地から集め、園内全体に配置したものである。その代表的なもは、伊豆磯石、伊予青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石などがある。
富士山と呼ばれる所は、敷石や無数の石が配置され、まさに「石庭」の観がある。
関東大震災で涼亭以外の建物は焼失し、翌大正13年(1924)敷地の東半分が東京市に寄贈され、都市公園となった。太平洋戦争による戦災で被害を受けたが、復旧工事によって名園の姿を取りもどしている。かっての深川親睦園の西半分は清澄公園となっている。
タイワンニンジンボクは、亜熱帯から熱帯に生える。日本では植えられる樹木である。果実は球形で黒く熟し、薬用となる。
昭和9年(1934)に東京神田の俳人晋永湖(しんえいこ)が立てた芭蕉顕彰碑。「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の句を刻む。 芭蕉稲荷の改修の際、敷地が狭いため当時の東京市長の許可を得て、清澄庭園の南隅に移された。
深川芭蕉庵跡は松尾芭蕉(1644~94)が、37歳の延宝8年(1680)から元禄2年(1689)の「奥の細道」の旅立ちまで、門人であり援助者でもあった杉山(鯉屋)杉風の別荘を借りて住んでいたところ。
芭蕉記念館内には松尾芭蕉研究家の真鍋儀十のコレクションを中心に、 芭蕉自筆の句や短冊など、貴重な資料が展示されている。庭の筑山には 芭蕉庵跡から移した「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の芭蕉句碑がある。
隅田川のほとりの「分館史跡展望庭園」には、芭蕉翁の像が建てられている。
「寛永12年(1672)、江戸日本橋を拠点に俳諧活動に入った松尾芭蕉は、句会の興行や選集の出版などの実績を積み重ね、江戸屈指の人気宗匠となる。自然への回帰を説く『荘子』や、『本来無一物』を根本精神とする禅へ傾倒した芭蕉は、西行法師や能因など旅を重ねた歌人・文人たちへの思慕の念を強めていく。」(※)
清澄庭園は明治の代表的「回遊式林泉庭園」、全国の奇岩名石を配した池を巡れば四季折々の表情がある。隅田川の夏の風物詩「隅田川花火大会」を楽しむことが出来る。
「慶長5年(1603)幕府は平川を延長した掘割に木橋をかけるが、だれとなく日本橋の名がつけられた。
江戸時代に五街道(東海道、中山道(木曾街道)、甲州街道(甲州道中)、奥州街道(奥州道中)、日光街道(日光道中))の里程の原点となり、明治以降も諸街道の元標として、今なお日本の中心的存在となっている。江戸時代初期、このあたり一帯は海辺のアシ・ヨシの茂る湿地帯であったが、掘を掘り、神田川の台地を切りくずした土で埋立てて、商業地か造成された。」(※)
橋の中央部の道路には、日本国道路元標と刻んだ真鍮板が埋められている。北詰め西側には、旧東京市道路元標がある。
日本銀行本店本館は辰野金吾の設計したルネサンス様式風の壮重な建物である。本館前の分館には貨幣博物館があり、内外の貨幣が展示されている。
一石橋の名は、橋の北側に金座改役後藤庄三郎の役宅、南側に幕府呉服御用商人の後藤氏の店があったところから、両後藤(五斗)合わせて一石としゃれたものである。
日本橋川は、江戸市中への物資搬入の幹線運河であったが、現在その上に高速道路が建設され、かつての面影はまったくみられない。一石橋西側は、大手町郭の外濠となる日本橋川の上流と、大名小路郭(現在の丸の内)の外濠、内濠の辰ノロから日本橋川に通じる道三堀の合流点で、堀と川の十字路である。
木橋としては最後となった明治6年(1873)の一石橋長さ14間、幅3間の橋である。大正11年(1922)に東京市道路局によって鉄筋コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となった。平成9年(1997)には大正11年の橋本体は全て撤去されたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を偲ばせている。
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出て場合、町内が責任をもって保護することになっていた。一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。
一石橋から外堀通りをすすみ、常盤橋交差点をわたると、左側に明治10年(1877)にかけかえられた都内最古の洋式の石造アーチ橋である常盤橋がある。常盤橋は、もと大橋または高橋と呼ばれ、このあたりは太田道灌時代の江戸湊の中心である。江戸時代は、大手町郭の日光・奥州道中口の要衝で、常盤橋門(見附)は大手門に対応する正門として重視されていた。
「渋沢栄一は、天保11年(840)武蔵国の豪家に生まれ、尊攘運動に身を投じ、後、一橋家、ついで幕府に仕えた。十五代将軍徳川慶喜の弟昭武の随員として慶応3年(1867)渡欧、明治維新後大蔵省に入り、財政、貨幣、銀行制度の整備にあたった。やがて実業界に転じ、明治6年(1873)第一国立銀行創立以後、多くの国立、私立銀行創立に関与、手形交換所創設、日本銀行創立にも関係した。産業面では王子製紙、東京鉄道、大阪紡績、日本郵船などの多方面の重要産業を創立、政商としても広く活躍し、政府財界の仲介者的役割をはたした。大正5年(1916)実業界を引退し、余生を教育、社会事業にささげた。」(※)
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