東海道(宿・一里塚跡)

週末ウォーキング / 人物一覧(ゆかりの地)

日本橋
日本橋(撮影 2011.6.4)

 日本橋がはじめて架けられたのは、慶長8年(1603)といわれ、翌年には、諸街道の起点と定められ。日本橋一帯には、魚河岸、米河岸、材木河岸などがつくられ、また、幕府の陸上輸送を担当する伝馬役所が橋の近くに設けられた。

品川宿 聖蹟公園(本陣跡)
品川宿 聖蹟公園(本陣跡)(撮影 2012.3.3)

 東海道一番目の宿場品川宿は、日本橋から2里、目黒川youtubeの河口に位置していた。品川宿は目黒川を境として北本宿と南本宿の2宿からなっていたが、江戸寄りに新町ができ、享保7年(1722)に年間1万2000人の歩行人足を出すことを条件として新しい営業が認められた。こうして品川宿は、北から歩行新宿・北本宿・南本宿の3宿からなることとなった。
 江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休憩や宿泊するところで、品川宿には初め南北本宿に一軒ずつあったが、江戸中期には北本宿のみとなった。大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらした。現在、本陣跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となたことに因み、聖蹟公園と命名されている。

川崎宿跡(田中本陣)
川崎宿 川崎宿跡(田中本陣)(撮影 2018.3.10)
川崎宿跡(田中本陣)
川崎宿跡(田中本陣)

 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永5年(1628)に設置されている。田中家は、代々に渡って本陣の名主として川崎宿の経営に意を尽くした。中でも、田中休愚は、江戸から近く旅人が宿泊せず、通過することにより、多くの旅寵が廃業へ追い込まれた苦境から川崎宿を救い、復興から繁栄への道を切り開いた。

市場一里塚
市場一里塚(撮影 2007.11.18)

 市場一里塚は、市場は江戸(日本橋)より5里目の塚に当たり、横浜市内で最初の一里塚。明治10年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存している。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していた。

料亭田中家
神奈川宿 料亭田中家(撮影 2019.2.21)
説明板
説明板

 神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久3年(1863)創業の田中家。坂本龍馬の妻「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年(1874)。勝海舟の紹介で働いていたと伝えられる。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていた。

保土ヶ谷宿 旅篭屋跡
保土ヶ谷宿 旅篭屋跡(撮影 2017.6.10)
保土ヶ谷宿本陣跡
保土ヶ谷宿本陣跡

 保土ヶ谷宿は保土ヶ谷・岩間・神戸・帷子の4つの町からなる宿場町で、江戸日本橋から約32kmのところにある。本陣は代々苅部家がつとめ、問屋・名主もかねていた。苅部家は家伝によると後北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫という。本陣の大名宿泊代は決まった額はなく心づけである。
 旅篭屋は、天保年間の本金子屋(伝左衛門)である。

戸塚宿 見付跡
戸塚宿 見付跡(撮影 2019.3.20)

 横浜市内には五街道の1つである東海道がとおっていた。その宿場として横浜市内には神奈川町・青木町からなる神奈川宿、保土ヶ谷町・神戸町・帷子町・岩間町からなる保土ヶ谷宿、戸塚町・吉田町・矢部町からなる戸塚宿があった。

藤沢宿 遊行橋(旧大鋸橋)
藤沢宿 遊行橋(旧大鋸橋)(撮影 2017.8.28)
高札場跡
高札場跡

 東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行橋(旧大鋸橋)で境川を越えて鎌倉郡から高座郡に入る。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていた。

四谷辻 四谷不動
四谷辻 四谷不動(撮影 2001.10.27)
説明板
説明板

 四谷不動(大山道標)は、東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側に「これより大山みち」とある。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたもの。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。

茅ヶ崎 一里塚跡
茅ヶ崎 一里塚跡(撮影 2000.7.9)
説明板
説明板

 茅ヶ崎 一里塚は、慶長9年(1604)徳川家康が二代将軍徳川秀忠に命じて東海道、東山道、北陸道に整備させたもので、日本橋を起点に沿道一里毎に設けられた。大きさは9メートル四方、高さ3メートルで、街道の両側に相対して築かれ、塚上には多く榎を植え旅人の利便をはからった。

大磯宿 東海道松並木
大磯宿 東海道松並木(撮影 2009.1.17)
東海道松並木
東海道松並木

 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立ち枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたもの。

国府本郷 一里塚
国府本郷 一里塚(撮影 2009.1.17)
銘板
銘板

 国府本郷に入ると、東海道の記憶を伝える「 国府本郷の一里塚」が標識がある。この一里塚は、日本橋から17番目と数えられる。(実際はここより約200m江戸寄りに位置して、東海道をはさんで左右一対が存在していたといわれている)

押切坂付近 一里塚の跡
押切坂付近 一里塚の跡(撮影 2001.2.3)

畑宿 旧街道一里塚
畑宿 旧街道一里塚(撮影 2002.11.16)
寄木細工の作品
寄木細工の作品

 江戸日本橋を出発した旅人が距離の目安にした一里塚。現在、本物の一里塚はあまり残っていないが、これは当時の姿を伝える貴重なものだ。江戸からは23里(約92Km)の位置にある。畑宿には、寄木細工の作品を展示する畑宿寄木細工会館や、職人さんの実演をしているお店がある。

箱根旧街道
箱根旧街道(撮影 2002.11.16)
石畳の道
石畳の道

 箱根旧街道は、江戸時代の五街道の一つ。参勤交代の大名や人馬の往来が盛んであったといわれる。現在も石畳、杉並木、関所跡が残り多くの人に親しまれる。江戸時代の始めそれまで利用していた湯坂道のかわりとして利用されてるようになったもので有名な「箱根八里」は、この道である。この道に敷かれている石畳は延宝8年(1680)に江戸幕府が布設したものですが、其の後、文久元年(1863)孝明天皇の妹和宮内親王が十四代将軍徳川家茂のもとに降娘される際に全面的に改修されたと云われている。

箱根旧街道 杉並木
箱根旧街道 杉並木(撮影 2001.5.12)
恩賜箱根公園 湖畔展望館
恩賜箱根公園 湖畔展望館

 杉並木の箱根旧街道は多くの観光客の散歩ルートになっている。

箱根関所跡
箱根関所跡(撮影 2001.5.12)

 箱根の関所といえば、特に厳しい取り締まりが行われた関所として有名だ。その厳格さを物語るエピソードがある。「水戸黄門」の通称でおなじみの水戸藩二代藩主徳川光圀の一行が、関所を通過した際のこと。一行は関所の番士がいったん止まるように頼んだにもかかわらず、そのままずんずんと通り過ぎてしまった。だがそこは箱根関所の番士。相手が「天下の副将軍」であろうと職務を果たさねばならない、という気持ちで一行を追いかけた。番士は無礼をとがめられて斬られるのを覚悟していたが、意外にも逆に光圀から職務に忠実であることをほめられ、金一封を賜ったという。

駿府城 弥次喜多像
駿府城 弥次喜多像(撮影 2011.6.18)

 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」物語は、江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛(左の像)と、元役者で江尻(現清水市)出身の喜多八(右の像)という無邪気でひょうきんな主人公ふたりが、江戸を出発して東海道を西へ向かい、伊勢を経て京都・大坂へと滑稽な旅を続ける道中話で、今でも弥次喜多道中と言えば楽しい旅の代名詞となっている。十返舎一九は駿河国出身。下級武士の家に生まれたという。江戸の版元蔦谷重三郎のもとで年20作ほど量産し挿絵も描いた。発売当初から大評判で続編も書かれた。


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