東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行橋(旧大鋸橋)で境川を越えて鎌倉郡から高座郡に入る。
橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていた。
高札場跡にある江の島弁財天道標は、市内在住のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されている。
「朱塗りの遊行寺橋を渡ると、「時宗総本山」「清浄光寺」の2枚の木札を左右にかけた黒塗りの総門がみえてくる。遊行寺の正式名称は藤沢山無量光院清浄光寺といい、一遍(智真)を開租とあおぐ時宗の総本山である。遊行寺という名称は遊行上人の住む寺からおこり、藤沢道場ともよばれた。」(※)
浅草・芝などの江戸講中や戸塚宿遠近の篤志者が一体となって建立、寄進した燈籠である。台座に五百名弱の寄進者の名が刻まれており、銘文には天保13年(1842)の建立とある。
惣門からの四十八段の石段は「いろは坂」と呼ばれ、春には桜のトンネルになる。
境内最大の大イチョウは、藤沢市内で一番太い木。かっては、高さが約31mあったが、昭和57年(1982)8月の台風で地上6mの辺りで幹が折れた。
12月初旬には、大イチョウの黄葉が見られる。
遊行四世を継承した四世呑海が、相模国俣野荘の地頭俣野五郎景平の実弟であったという緑で、同じ境川筋の下流で東海道に画した廃寺極楽寺を再興して清浄光院を創建して以後、遊行上人は当寺を拠点として各地を遊行廻国するようになった。
延文元年(1356)、初代将軍足利尊氏から寺領6万貫の寄進をうけ、後光厳天皇宸筆の勅額を賜与され清浄光寺と改めた。
一遍の教えは、善人・悪人、信仰のあるなしを問わず、念仏によってすべての人が救われるというものだった。そして踊りながら念仏を唱える「踊念仏」によって多くの民衆に教えを広めた。これは時宗と呼ばれ、仏教が庶民のものなる契機ともなり、農民や地方武士に圧倒的に受け入れられた。
敵御方供養塔は怨親平等の碑ともいわれ、応永23年(1416)、関東管領上杉氏憲(禅秀)が四代鎌倉公方足利持氏にそむいて滅ぼされた際、敵味方の区別なく戦傷者を収容・治療し、死者を平等にとむらうために建立されたものである。
戦没者供養塔は日清・日露戦争・大東亜戦争で藤沢市出身の千二十余名の英霊が眠っている。
俣野荘の地頭俣野五郎景平は貞和年中(1345-49)に没しているが、後に俣野大権現とて山内に祀られて今日に至っている。
地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し、平成26年(2014)に建立された。
鋳造は、銘文によると延文元年(1356)、遊行八代渡船上人の時にあたる。遊行寺開山以来、ようやく八代執権北条時宗が降盛期に達した時代です。この銅鐘は、栄生10年(1513)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。
本堂右手奥の山内寺院の長生院には、阿弥陀如来と説経節・人形浄瑠璃で有名な小栗判官満重・照手姫の墓がある。
「常陸国(茨城県)小栗城の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、四代鎌倉公方足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城しました。
この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。」(※)
遊行寺の宇賀神社は、徳川家の祖先、得川有親公(松平親氏の父)の守り本尊といわれている。
中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。
中雀門は向唐門造りで、正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれている。
関東大震災で倒壊後、再建された。行事等の正式な玄関として使用されている。
古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。
明治天皇が遊行寺にお泊りになっ時に使われた井戸です。
遊行寺宝物殿は昭和52年(1977)4月に開館され、仏教美術の絵画・書跡・工芸が展示されている。企画展「遊行上人の軌跡」(2017.7.22~10.2)が開催されていた。
遊行寺宝物殿前にある沓石は、江の島道の入口にあった江島神社の一の鳥居の沓石。文政6年(1823)に建てられた青銅製鳥居です。
【アジサイ】