別願寺は、山号は稲荷山。もとは真言宗で能成寺といったが、公忍が一遍上人の弟子となって覚阿公忍と改め弘安5年(1282)に時宗に改宗して寺号もかえたといわれる。本尊は阿弥陀如来像である。室町前期には鎌倉公方の菩提寺となって栄えていた。
応永16年(1409)、足利持氏は足利満兼の子で、父の死により13歳で四代鎌倉公方となった。
応永23年(1416)、関東管領の上杉氏憲(禅秀)が持氏の叔父満隆を擁して持氏を襲うという上杉禅秀の乱(関東管領vs鎌倉公方)が起ったが、四代将軍足利義持の援助を得てこれを鎮圧した。
永享10年(1438)、永享の乱(関東管領vs鎌倉公方)では幕府から攻められ出家し、翌年には自害する。
本堂脇の墓地には3mをこえる足利持氏の供養塔という石造の多宝塔がある。実際には鎌倉期に造られたとみられる。四方に鳥居の浮彫りが施された珍しい石塔です。