周囲約4km、面積0.38k㎡、標高約61mの小島である。かつて江の島は龍口山付近と陸続きであったが、海水による浸食作用や約2万年前からの完新世(沖積世)の地盤沈降(海信)により独立した島となった。
冬の季節は、江の島弁天橋から美しい富士山が見られる。
4月初旬、江の島天然温泉の海側から撮影したダイヤモンド富士。
文政4年(1821)に青銅製に再建された鳥居。正面の額には「江島大明神」と書かれているが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっている。
参道にある岩本楼(旧岩本院)は、江の島の岩屋本宮(岩屋洞窟)の別当寺で、岩本院の先祖は源氏一族の中の「宇田源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な「佐々木氏」です。
縁起では欽明天皇のころ人々を苦しめていた五つの頭を持つ竜を天女が下ってきてしずめたといわれ、その天女が弁才天として江の島明神になったという。
寿永元年(1182)、初代将軍源頼朝の戦勝祈願のため文覚上人が弁財天をこの島に勧請したと伝えられる。
明治元年(1868)、神仏分離令されると、海の神として信仰される宗像三女を祀る辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮と、岩屋を総称したのが江島神社です。
瑞心門両側に描かれている唐獅子は、中央アジアからもたされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、わが国には密教曼荼羅の中の唐獅子が九世紀に渡来し定着したものです。
瑞心門の奥に、平成14年(2002)に大きな「弁財天 童子石像」が建てられている。
『太平記』によると、「建久元年(1190)に初代執権北条時政が、江の島に参籠して子孫繁栄を祈願したところ、美女に姿をかえた竜神があらわれ、その願いをかなえると約束したという。時政はその美女が竜神であったことに気づき、竜神が残した3枚の鱗から三鱗を北条氏の家紋とした」と言われている。
田寸津比売命を祀る辺津宮は、良真(鶴岡八幡宮寺供僧)が三代将軍源実朝に申請して創建したといわれる。
弁天堂は、鎌倉初期の作といわれるヒノキ材の寄木造の八臂弁財天像と、琵琶をかかえ、ふっくらとした体つきで妖艶な鎌倉期の作といわれる妙音弁財天裸像(日本三弁財天の一つ)がまつられている。弁財天は、鎌倉・江の島七福神の1つに数えられている。
八坂神社の江戸時代以来の天王祭は、腰越で祀られていた神体が大波に流されたのを、江の島の大海士(素潜り漁師)が海中より、すくい上げて祀ったと言われている。
辺津宮社殿近くには弁財天黄金浄水、御神木(むすびの樹)がある。
中津宮手前のみどり広場には、早咲きの河津桜が咲く。
市寸島比売命を祀る中津宮は、仁寿3年(853年)、円仁(慈覚大師)によって創建された。
現在の社殿は元禄2年(1689)に再建されたものです。歌謡音曲関係者の石灯籠が多くあり、歌舞伎の市村座・中村座が奉献した灯籠はとくに重圧感がある。
七代目尾上菊五郎と五代目尾上菊之助さんの手形がある。
サムエル・コッキング苑近くにある片野写真館(江の島ふぉとみゅうじあむ)は、観光地写真館としての長い歴史を持ち、館内では戦後の女性ポートレートや松竹大船映画スターの貴重な写真を懐かしく見ることができた。
【ウィンターチューリップ・椿 2月】
江の島神社の野菜を栽培していた供御菜園であったが、明治13年(1880)に英国貿易商サムエル・コツキングが買収し、世界各地から熱帯・亜熱帯植物を取り寄せて開園した。
平成15年(2003)、江の島植物園が再整備され、江の島サムエル・コッキング苑とリニューアルされた。
入口付近には、沢山のウィンターチューリップが植えられている。
椿園、1月から3月にかけて250種500本の椿が見られる。
眺望の素晴らしい展望灯台をはじめ、中国昆明市より寄贈された四阿「騁碧亭」などがある。
江の島シーキャンドル(旧江の島展望灯台)は、昭和26年(1951)に、世田谷の二子玉川に設置されていた戦時中の落下傘訓練塔を、平和塔として、この江の島に移築されてものです。
その後、50余年にわたり、展望灯台は、相模湾の海洋航行の安全維持に、また地域の観光振興に大きな役割を果たした。そして、平成14年(2002)、老朽化により展望灯台は、新展望灯台の誕生と共に、その姿を消すこととなった。
展望灯台の展望フロア(高さ41m)からの眺望は絶景であり、眼下に江の島弁天橋と江の島大橋、腰越海岸、龍口寺を美しく見渡せた。
展望フロアの下り螺旋階段、富士山の写真を撮りながら降りることができる。
【河津桜 2月】
2月下旬~3月初旬にかけて、サムエルコッキング苑の前にある亀ヶ岡広場の河津桜が見頃を迎える。
山ふたつは江の島をちょうど二分する境で、断層に沿って浸食された海食洞が崩壊したことで「山ふたつ」が出来たといわれている。
群猿奉賽像庚申塔は、多数の猿がその本尊である山王神をたたえ、祝っているという大変珍しい庚申供養塔である。塔身の四面には合計36匹の猿神がそれぞれ異なった姿態をしている。
奥津宮の石鳥居は、源頼朝寄進と伝えられている。
奥津宮は、宗像三女の多紀理比売命を祀りしており、昔は「本宮御旅所」と称されていた。この由来は、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋付近の荒い波から避けるため毎年4月中旬から10月中旬までここに遷座したと言われている。
拝殿の天井に描かれた「八方睨みの亀」は、「亀は古来めでたく蓬莱山を背負い不老長寿の象徴となっている。奥津宮御祭神のお使いとして、皆様の祈願成就を見守る」と記されていた。
奥津宮から食事処の魚見亭、富士見亭、見晴亭前の階段を降りると 稚児ケ淵である。海蝕台地の岩、背後の断崖絶壁、遠くに富士山・伊豆箱根・丹沢・三浦半島などを望むことができる景勝地として「景勝50選」に選ばれている。
稚児ケ淵から眺める晴れた日の夕景は実に美しい。水平線は茜色から淡い紫色まで微妙に変化し、遠く箱根連山や富士山が暮色に包まれる。
稚児ケ淵の地名の由来は、その昔、鎌倉雪ノ下相承院の稚児白菊が、自体蔵王という僧侶に恋慕されたが、同性愛に困り果てて入水したことによるという。
江の島岩屋めぐりは昭和46年(1971)以来、長期閉鎖されていたが、周辺施設を一新し平成5年(1993)4月から復活された。洞窟内は、岩屋の生い立ちや歴史を紹介するギャラリー、日蓮の寝姿石、弘法大師像なとがある。第二岩屋へ向かう途中で、「弁財天信仰のために誰かが自然の岩を彫ったもの」と言われる珍しい「亀石」が見られる。
長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(152m)と第二岩屋(152m)から成る。古くから信仰の対象にもされてきた岩屋。弘法大師や日蓮上人も修行したといわれている。
満潮のとき波に洗われる姿は、巨大な亀が竜宮城へと帰っていくかの様に見える。
江の島生まれの伝説は、昔、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていました。ある時、前方の海上に密雲が何日にもわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何も無かった海上に一つの島ができていました。これが現在の江の島である。