源氏

週末ウォーキング / 人物一覧(ゆかりの地)

源頼義

 源頼義(998~1075)は、父と共に平忠常の乱を平定。前九年の役で安倍氏を討った。

ゆかりの地

元八幡
元八幡

 康平6年(1063)、源頼義源義家父子が前九年の役で、奥州の安倍頼時・貞任父子を討って京へ帰る途中に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に、京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願してかなえられたので、その祭神を勧請したといわれている。

源義家

 源義家(八幡太郎)前九年の役で安倍氏を平定し、後三年の役で清原一族の乱を鎮める。

ゆかりの地

大國魂神社
大國魂神社

 大國魂神社社殿の正面大鳥居(二の鳥居)に通じている馬場大門ケヤキ並木(国天然記念物)は、源頼義源義家父子が前九年の役出陣の際、奥州安倍氏の討伐を祈願し、鎮定後の康平5年(1062)、ケヤキの苗1000本を奉納したのが最初といわれる。

 永保元年(1081)、源頼義の子源義家は、後三年の役(源氏vs清原氏)(1083-87年)で奥州へいく途中のに参詣して元八幡を修理し、源氏の氏神として信仰したという。

源義光

 源義光(新羅三郎義光)(1045~1127)は、三井寺で元服し新羅三郎と称した。

ゆかりの地

新羅三郎義光吹笙之石
新羅三郎義光吹笙之石

 後三年の役で、この時敵の抵抗強く義家苦戦と聞いて新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)は数十騎の兵をつれて逢坂山を越え、日を重ねて足柄峠に露営したのは寛治元年(1087)の仲秋の名月である。義光は豊原時秋を傍近く呼んで、この大石の上に座り伶人豊原時秋に笙の奥義を伝えた。

源義朝

 源義朝(1123~1160)は、保元の乱(後白河天皇vs崇徳上皇)で勝利したが、平清盛と戦い、平治の乱で敗れる。

ゆかりの地

 文治元年(1185)、源頼朝は、父源義朝の供養のため勝長寿院を創建、奈良から仏師成朝を招いて、黄金の阿弥陀像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。阿弥陀如来を本尊として建立した寺院で、惣門、本堂、弥勒堂、五仏堂、三重塔なども建てられ、鶴岡八幡宮永福寺と並ぶ三大寺院に数えられた。

源為朝

 源為朝(1139~1170)は、保元の乱で父の為義と共に崇徳上皇方について敗れた。

ゆかりの地

六角ノ井碑
六角ノ井碑

 保元元年(1156)、平安時代後期の武将、源為朝は、京で起こった保元の乱で敗れ、弓を引けないよう腕の筋を切られて伊豆の大島に流された。しかし、為朝は自分の弓の力をためしたくて、大島から鎌倉の光明寺の裏山にある天照山めがけて矢を放ったところ、六角ノ井(鎌倉十井)に落ちたという伝説がある。

【鎌倉初代将軍源頼朝

 源頼朝(1147~1199)は、伊豆で挙兵し、平氏討伐を成し遂げる。御家人と主従関係を結び、鎌倉に幕府を開く。

ゆかりの地

しとどの窟へ向かう坂道
しとどの窟へ向かう坂道

 源頼朝は、治承4年(1180)の石橋山の戦い(源氏vs平氏)に於いて平家の軍勢総大将大庭景親3千余騎と戦ったが、10対1の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引き返し、土肥実平の守護とみちびきによって土肥の椙山に逃げかくれ土肥実平のお陰で、人の知らない谷底しとどの窟や大木の洞にかくれ一命を救ってもらった。

伊豆山神社
伊豆山神社

 伊豆山神社の由来は、古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯山とも呼ばれていたが、明治の神仏分離令により現在の社名に改称された。源頼朝北条政子の縁を結んだ場所としても知られている。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

 鶴岡八幡宮の祭神は応仁天皇、比売神、神功皇后。
 冶承4年(1180)、由比若宮(元八幡)源頼朝が現在の境内(現、若宮)に移したが、建久元年(1190)に火災にあい焼失したため、裏山(現、上宮)に改めて石清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。

法華堂跡(北条義時墓)
法華堂跡(北条義時墓)

 源頼朝の墓の層塔は、安永年間(1772~81)頼朝の子孫と称する薩摩藩主島津重豪が、東側隣接山腹の横穴に先祖の墓をつくったとき、従来たっていた小さな五輪塔にかえで、大御堂(勝長寿院)にあった層塔を移しだといわれる。

源頼朝像
源頼朝像

 平治元年(1159)、平治の乱が起きると、父義朝と兄義平らが戦いに負けて非業の最期をとげ、源頼朝は14歳で伊豆蛭ケ小島(静岡県伊豆の国市)へと配流された。平家の棟梁である平清盛は、頼朝を死罪にして源氏の嫡流を根絶やしにしようとした。だが、清盛の続母である池禅尼が、幼くして亡くした子どもに頼朝が似ていたことから命乞いをし、頼朝は救われたといわれる。
 昭和55年(1980)、公園の南側に源頼朝の鎌倉入り800年を記念して願朝の銅像が建てられている。

源範頼

 源範頼(1150~1193)は、源義経と共に平氏の追討に参加し、頼朝に従順だったが、忠誠を疑われ伊豆修善寺で殺された。

ゆかりの地

三療山薬王寺
三療山薬王寺

 源頼朝の弟にあたる源範頼の別邸があったこの地に、鎌倉時代の初期に建立された三愈山遍照房が始まりと伝えられている。本尊の薬師如来(源範頼の持仏)、大日如来、種子曼陀羅、鎌倉末期の作とされる聖観世音菩薩像などがある。

源義経

 源義経(1159~1189)は、奥州藤原秀衡のもとで成長する。頼朝の怒りを買って対立し、藤原泰衡に攻められ、自害。

ゆかりの地

源義経像
白旗神社 源義経像

 源義経源範頼は、文治元年(1185)、壇ノ浦の戦い(源氏vs平氏)で平家を滅ぼした。

腰越状(下書き)の書状
腰越状(下書き)の書状

 文治元年(1185)5月24日、平家を滅亡させた源義経は兄の源頼朝の怒りにふれて鎌倉入りを禁じられ、鎌倉の西端にあたる腰越にとめられた。そのとき、頼朝の怒りを解こうと切々たる思いを託したのが「腰越状」である。

高館義経堂
高館義経堂

 高館は、兄頼朝の不興をかい、奥州に落ちた源義経の居館があった地と伝えられ、天和3年(1683)に仙台藩四代藩主伊達綱村が義経を偲んで丘の頂に義経堂を建てた。堂には甲胃姿の義経の木像が安置されている。

源義経公鎮霊祭
白旗神社 源義経公鎮霊祭

 文治5年(1189)4月30日、奥州平泉の衣川の高館義経堂で、藤原泰衡に襲撃された源義経は自害し悲壮に最期を遂げた。その後、同年6月13日、腰越の浜の首実検後に捨てられたが、潮に乗って境川を遡り白旗神社の近く(首洗井戸)に流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと伝えられる。

【鎌倉三代将軍源実朝

 源実朝(1192~1219)は、歌人として名高い三代将軍。鶴岡八幡宮拝賀の日、頼家の子公暁に襲われ、落命した。

ゆかりの地

大きくなった若木
大きくなった若木

 承久元年(1219)1月27日、三代将軍源実朝は、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣したあと、頼家の遺子公暁に暗殺されている。
 平成22年(2010)3月10日、公暁が隠れていたと伝承される大銀杏は、強風によって倒れてしまった。再生・再起を願い、大石段側の元の場所に残された根本保存、倒伏した大銀杏の本体(親木)は、西側(左)へ移植した。

源実朝の墓
源実朝の墓

 寿福寺は臨済宗建長寺派、山号は亀谷山、寺号は寿福金剛禅寺、鎌倉五山第3位の寺格をもつ名刺である。開山は明菴栄西(栄西禅師)で、開基は一般には源頼家北条政子とされている。

 墓地の山ぎわには30穴からなるやぐら群があり、北側のやぐらのなかに源実朝北条政子墓がある。源実朝墓とされるやぐらは、天井や壁面に唐草模様の彩色があるので、「唐草やぐら」とか「えかきやぐら」などとよばれている。


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