小田急湘南台駅から円行公園の中を通り抜けて、引地川沿いの道に出た。
引地川は大和市の泉の森の大池と小池の湧水池を源流とし、藤沢市の中央を北から南へ縦断し、鵠沼海岸で相模湾に注ぐ。川辺の野鳥観察が出来、沿川の緑地を保全・整備する事業も進められている河川です。
穏やかな天気に恵まれ、引地川沿いの散歩道はサイクリングや散歩を楽しむ人の往来があった。また、川岸にはコスモスが咲き、川には沢山の鯉も見かけることができる。
引地川に架かる小さな橋も多く、途中、円行新橋や馬渡橋、秋本橋などがあった。そして石川橋で右折して大庭城址公園へ向った。
厚木藤沢線の道路横からの登り階段で大庭城址公園に上がった。広々とした大芝生広場は地元の人の格好の憩いの場所でもあり、犬の散歩、一人読書に耽る人、子供と一緒に遊ぶ家族ずれの光景が目立った。
大庭城跡は、引地川とその支流小糸川にはさまれた台地上にあり、大庭御厨の荘官大庭氏の居館跡ともいわれる。
長治2年(1105)、大庭御厨は鎌倉権五郎景正(景政)によって開発され、12世紀初頭に伊勢神宮へ神領として寄進した荘園であった。
天養元年(1144)、鎌倉に本拠をおく河内源氏六代目源義朝が1000余騎の兵で侵入した。
平治元年(1159)、平治の乱後は平清盛に服し平家の代官である大庭景親の支配下になる。
治承4年(1180)、石橋山の戦いでは、大庭景親が初代将軍源頼朝勢を敗走させた。のち頼朝の鎌倉入部後、景親は滅ぼされるが、兄の大庭景義は頼朝につかえ重用された。
戦国時代に入り、扇谷上杉定正・上杉朝良父子の居城として家臣の太田道灌が修築・拡大した。
永正9年(1512)、初代当主北条早雲によって攻略され、後北条氏の番城として用いられた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻め以後、廃城となった。
台地全体にまたがる城郭は、先端が東西の丘陵斜面にくいこむ竪堀となっている空堀や鍵の字にまがる堀をめぐらしている。台地上には弥生・古墳・奈良・平安時代の集落跡も存在し、大庭城址公園として整備されている。
現在は樹木に覆われた約12万㎡の園内に大芝生広場や花の広場、チビッコ冒険広場などがある。
桜の季節には、大芝生広場の満開の桜の下、大勢の人が花見を楽しんでいた。
公園の外正面出口付近で見かけた大きなヤマザクラが美しい。
大庭トンネルを抜けて国道1号線の交差点に出ると、近くに一里塚跡と書かれた道標がある。
一度交差点に戻り、国道1号線を藤沢方面に少し歩くと、四ツ谷交差点の道路脇に四谷不動がある。
四谷不動(大山道標)は、東海道と大山道が交差する四谷辻(古道50選)に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側に「これより大山みち」とある。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたもの。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。
四谷辻から旧東海道に入り羽島の交差点、メルシャンワイン工場の前を通り引地橋に着いた。ここから、また引地川に戻り西岸の道を長久保公園へ向う。
長久保公園にあるみどりの相談所の展示ホールでは盆栽の展示会が開催されていた。そして、訪れた人達は植物に関する質問などを関係者から説明を受けていた。
引地川の川べりにあり、花や植物が豊富なことで知られる公園。きちんと整備された園内は、春のジンチョウゲや夏のクチナシ、秋のキンモクセイと年間を通じて花が絶えない。園内は花のプロムナード、スイレンの池、花菖蒲の池などの見どころも多い。