【初代執権北条時政】
北条時政(1138~1215)は、桓武平氏を祖とする。源頼朝挙兵後は地盤固めに協力し、頼朝の直系滅亡後は鎌倉幕府初代執権となる。
ゆかりの地
江島神社は『太平記』によると、「建久元年(1190)に初代執権北条時政が、江の島に参籠して子孫繁栄を祈願したところ、美女に姿をかえた竜神があらわれ、その願いをかなえると約束したという。時政はその美女が竜神であったことに気づき、竜神が残した3枚の鱗から三鱗を北条氏の家紋とした」と言われている。
【二代執権北条義時】
北条義時(1163~1224)は、和田氏を滅ぼし政所別当と侍所別当を兼任。承久の乱でも幕府軍は完勝し、最高権力者としての地位を確立する。
ゆかりの地
法華堂跡は、二代執権北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。
北条義時は、父の北条時政や姉の北条政子らとともに初代将軍源頼朝による幕府の開創立を助けました。承久3年(1221)、承久の乱において後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。
【三代執権北条泰時】
北条泰時(1183~1242)は、北条政子が亡くなると、連署・評定衆を設け、日本で最初の「御成敗式目」を制定する。
ゆかりの地
和賀江島は往阿弥陀仏(勧進僧)が鎌倉の船の着岸の便をはかろうとして、三代執権北条泰時の協力を得て、貞永元年(1232)に伊豆石で築いた石材が、潮が引くと姿をあらわしその面影を伝えている。飯島岬から海中に約200m延びた石積みの防波堤だったと考えられる。
嘉禎3年(1237)、常楽寺は臨済宗建長寺派、山号は粟船山、開山は蘭溪道隆。三代執権北条泰時が夫人の母の追福のためにに建立した粟船御堂が常楽寺の前身で、その間堂供養を退耕行勇がつとめたという。仁治3年(1242)、泰時が没したとき、この粟船御堂に葬られ、泰時の法名をとって常楽寺としたといわれている。
【四代執権北条経時】
北条経時(1224~1246)。
ゆかりの地
光明寺は、開基四代執権北条経時、開山法然上人の孫弟子然阿良忠(記主禅師)である。こ光明寺の前身は、経時が、鎌倉にはいって浄土宗の布教につとめていた良息のために、仁治元年(1240)佐助ヶ谷にたてた蓮華寺である。
【五代執権北条時頼】
北条時頼(1227~1263)は、宝治合戦で安達氏と三浦氏を滅ぼし権力強化を図る一方、庶民にも善政を敷く。蘭溪道隆を招き建長寺を建立する。
ゆかりの地
建長5年(1253)、建長寺は臨済宗建長寺派大本山、山号は巨福山、開山は宋の蘭溪道隆(大覚禅師)、開基は五代執権北条時頼によって創建された。その建立の趣旨に、上は皇帝の万歳、将軍家および重臣の千秋、天下太平を願い、下は源氏三代、北条一門の霊をとむらうためとある。
康歴元年(1256)、北条時頼が最明寺を創建したが廃寺となり、その後、八代執権北条時宗が蘭溪道隆(大覚禅師) 開山として禅興寺を創建した。
【六代執権北条長時】
北条長時(1230~1264)は、幕府の体制維持に尽力。日蓮を伊豆国への流罪に処する。
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浄光明寺は浄真言宗泉涌寺派、山号は泉谷山、開山は真阿(真聖国師)、開基は六代執権北条長時で、建長3年(1251)の創建という
【七代執権北条政村】
北条政村(1205~1273)は、北条長時の病死により60歳で執権となる。元寇を前に退き、連署として次の時宗を補佐した。
ゆかりの地
北条氏常盤亭跡は、鎌倉切通の一つである大仏切通の北に接する要所として、鎌倉時代に七代執権北条政村などの北条一族の有力者が別邸をかまえていた
【八代執権北条時宗】
北条時宗(1251~1284)は、西国の防備と国内統制で蒙古襲来を防ぐ・幕府の全国支配を完成させる。
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弘安5年(1282)、円覚寺は臨済宗円覚寺派大本山、山号は瑞鹿山、開山は宋の無学祖元(仏光国師)、開基は八代執権北条時宗によって創建された。時宗は、文永・弘安両役(蒙古襲来)に殉じた彼此両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道を弘めたいと願い、且つその師無学祖元への報恩の念から円覚寺の建立を発願したといわれる。
堂内には八代執権北条時宗・九代執権北条貞時・十四代執権北条高時の尊像が安置されている。現在の開基廟は江戸時代文化8年(1811)に改築された。
【九代執執権北条貞時】
北条貞時(1271~1311)は、平頼綱の進言により安達泰盛を討つ(霜月騒動)。
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弘安8年(1285)、東慶寺は臨済宗円覚寺派、山号は松岡山、開山は八代執権北条時宗の夫人覚山尼、開基は九代執権北条貞時によって創建された。
堂内には八代執権北条時宗・九代執権北条貞時・十四代執権北条高時の尊像が安置されている。現在の開基廟は江戸時代文化8年(1811)に改築された。
【十代執権北条師時】
北条師時(1275~1311)は、若くして評定衆となり、貞時の出家に伴い執権に就任する。
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弘安4年(1281)、浄智寺は臨済宗円覚寺派、鎌倉五山第四位、山号は金宝山、開山は渡来宋僧兀庵普寧(宗覚禅師)、開基は十代執権北条師時によって創建された。
【十四代執権北条高時】
北条高時(1303~1333)は、元弘の変の際に後醍醐天皇を隠岐へ流すが、脱出されてしまう。後醍醐天皇の挙兵に応じた新田義貞が鎌倉に侵攻すると東勝寺へ退き、北条高時は北条一族家臣と共に自害した。
ゆかりの地
東勝寺は、北条泰時が退耕行勇を開山として嘉禎3年(1237)ごろ開いたと伝えられ、元弘3年(1333)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで十四代執権北条高時・十五代執権北条貞顕、北条氏一門がここに火を放って870人余が自害したといわれでいる。
東勝寺跡をさらに登れば、北条高時腹切りやぐらが残っている。現在でも供養が行われている。
【十五代執権北条貞顕】
北条貞顕(金沢流北条氏四代)は六波羅探題をつとめたのち、十五代執権となった。新田軍侵攻により、北条高時らと共に自害した。
ゆかりの地
鎌倉幕府の評定衆・引付衆などを歴任した金沢流北条氏二代北条実時が、正嘉2年(1258)ごろに金沢の別邸内に持仏堂を設けたのが称名寺のおこりと伝えられている。
二代実時のあと、三代顕時・四代貞顕・五代貞将の保護と、住職に高名な学僧を輩出したことから、称名寺は大いに栄えた。
【北条政子】
北条政子(1157~1225)は、源頼朝の妻として幕府政治を支えた。頼朝の死後、源頼家と源実朝の後見人として幕府を支えた。
ゆかりの地
安養院の前身は尊観が創建した善導持である。北条政子が頼朝の菩提をとむらうために、長谷笹目に創建した律宗の長楽寺が鎌倉末期に善導寺に移ってきたことから、寺号を長楽寺、院号を政子の法名である安養院に改めたという。
寿福寺は臨済宗建長寺派、山号は亀谷山、寺号は寿福金剛禅寺、鎌倉五山第3位の寺格をもつ名刺である。開山は明菴栄西(栄西禅師)で、開基は一般には源頼家・北条政子とされている。
墓地の山ぎわには30穴からなるやぐら群があり、北側のやぐらのなかに源実朝と北条政子墓がある。