新田義貞

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ゆかりの地

生品神社 新田義貞像
生品神社 新田義貞像(撮影 2012.6.24)
太田駅前 新田義貞像
太田駅前 新田義貞像

 新田義貞は、鎌倉時代末期~南北朝時代の郷土武将、清和源氏新田氏嫡流、元弘3年(1333)生品神社で挙兵。鎌倉幕府を倒し建武新政の中核となり、武者所頭人・左近衛中将に任ぜられる。延元3年(1338)越前藤島の戦いで壮絶な最期を遂げた。

生品神社
新田荘 生品神社(撮影 2012.6.24)

 八代当主新田義貞後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内である。

分倍河原駅前 新田義貞像
分倍河原駅前 新田義貞像(撮影 2012.6.10)

 鎌倉攻め(新田氏vs北条氏)
 幕府に不満をもつ武士をつぎつぎと加えながら、義貞軍は鎌倉街道上道を南下した。途中の武蔵国将軍沢郷(埼玉建嵐山町)も世良田氏の所領であり、9日ここに宿営し兵を休めたとみられる。こののち小手指河原(埼玉県所沢市)や分倍河原(東京都府中市)での幕府軍との激戦を勝ちぬき、18日に鎌倉を包囲、22日得宗北条高時以下を自刃に老い込み、鎌倉幕府を滅ぼした。

稲村ヶ崎 史跡
稲村ヶ崎 史跡(撮影 1999.11.27)
稲村ヶ崎
稲村ヶ崎

 鎌倉時代、稲村ヶ崎は鎌倉の西の境界の地であり、稲村ヶ崎の名が広く知られているのは、新田義貞鎌倉攻めのとき、義貞が竜神に祈願して海中に黄金造りの太刀を投じて海岸を徒渉したとの故事のためである。


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