道路から少しなかにある朱塗りの総門は、江戸初期の切妻造の四脚門で、総門から石畳の参道が続く。
中門も江戸初期の切妻造の四脚門。
寿福寺は臨済宗建長寺派、山号は亀谷山、寺号は寿福金剛禅寺、鎌倉五山第3位の寺格をもつ名刺である。開山は明菴栄西(栄西禅師)で、開基は一般には源頼家・北条政子とされている。
明菴栄西は、二度にわたって入宋し、日本に茶の種を伝え、茶の効用と養生法を説いた『喫茶養生記』を著したことで、日本での茶の栽培が始まった。
三代将軍源実朝は、源頼朝、北条政子の次男として建久3年(1192)8月、鎌倉で生まれる。幼名は千幡。
建仁2年(1203)、比企能員の変で比企一族が滅亡すると、二代将軍源頼家が廃され、伊豆修善寺に幽閉される。源実朝は12歳で三代将軍職となる。幕府の実権は北条氏に握られ、実朝はしだいに和歌や蹴鞠(けまり)などの宮廷文化に関心をもっていった。
墓地の山ぎわには30穴からなるやぐら群があり、北側のやぐらのなかに源実朝と北条政子の墓がある。源実朝墓とされるやぐらは、天井や壁面に唐草模様の彩色があるので、「唐草やぐら」とか「えかきやぐら」などとよばれている。
寿福寺から源氏山公園へ上がる坂道の途中に、「太田道灌公の墓」がある。
江戸城築城で有名な太田道灌資長は、この地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍した。この太田道灌公の墓は文政9年(1826)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再建したもの。