正治元年(1199)、源頼朝は相模川橋梁視察の帰路の落馬が原因で53歳の生涯を閉じた。遺体は頼朝の持仏堂に安置され、これがのちに法華堂と呼ばれている。
白旗神社は、源頼朝の墓所をまもり、頼朝の霊をまつる法華堂(墳墓堂)があって、江戸時代は鶴岡供僧相承院が兼務していたが、明治初年の神仏分離令に伴い撤去された。堂内にあった如意輪観音や、地蔵菩薩・自休像などは来迎寺に移された。
源頼朝の墓の層塔は、安永年間(1772~81)頼朝の子孫と称する薩摩藩主島津重豪が、東側隣接山腹の横穴に先祖の墓をつくったとき、従来たっていた小さな五輪塔にかえで、大御堂(勝長寿院)にあった層塔を移しだといわれる。
この平場は、二代執権北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。
北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに初代将軍源頼朝による幕府の開創立を助けました。承久3年(1221)、承久の乱(鎌倉幕府vs朝廷)において後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。
法華堂跡から、さらに石段をのぼると、大江・毛利・島津氏の墓が古墳時代後期の石垣のなかに横穴墓を改修した場所にある。内部には近世以降のものと与られる五輪塔が建っている。
大江氏は平安時代以降、文章道をつかさどった公家で、大江広元は中原広李の子で、源頼朝の招きによって元暦元年(1184)に下向し、鎌倉幕府の公文所の別当となった。守護地頭の設置建議など、幕府の基礎づくりにたずさわり、後には北条氏独裁体制の成立を支持し勢力を維持した。
広元の四男の毛利季光は、中国地方の大名である毛利氏の祖は相模国毛利荘の地頭となり毛利氏を名乗る。宝治合戦では三浦氏に加担し三浦氏とともに法華堂で自刃した。
御家人島津忠久は、のちの南九州地方の大名となる島津氏の祖である。
宝治元年(1247)、宝治合戦(北条氏vs三浦氏)では、御家人安達景盛(安達盛長の子)の陰謀で、御家人三浦泰村ら三浦氏一族は謀反の疑いをかけられ、かねてからの宿敵の北条氏(五代執権北条時頼)によって攻められ、法華堂に追いつめられた一族ら500余人は大倉やぐら群の下辺りで自決した。