【大江広元】
大江広元(1148~1225)は、公家出身で、源頼朝に仕えた政所初代別当となり、守護・地頭の設置にも関わる。源頼朝の死後は北条義時、北条政子のもとで幕政に携わった。
ゆかりの地
法華堂跡から、さらに石段をのぼると、大江・毛利・島津氏の墓が古墳時代後期の石垣のなかに横穴墓を改修した場所にある。内部には近世以降のものと与られる五輪塔が建っている。
大江氏は平安時代以降、文章道をつかさどった公家で、大江広元は中原広李の子で、源頼朝の招きによって元暦元年(1184)に下向し、鎌倉幕府の公文所の別当となった。守護地頭の設置建議など、幕府の基礎づくりにたずさわり、後には北条氏独裁体制の成立を支持し勢力を維持した。
【和田義盛】
三浦氏の一族。源頼朝に従い、初代侍所別当となる。平氏追討や比企氏の乱平定などに参加する。十三人の合議制の一人。
ゆかりの地
源頼朝の死後、和田一族は侍所別当和田義盛とともに、幕府内で権力を握った。
建暦3年(1213)、和田合戦(北条氏vs和田氏)では、和田義盛の甥和田胤長などの一族の何人かが、頼家の遺児をかついでの幕府に対する陰謀に荷担したとの嫌疑に端を発し、和田氏一族が峰起して幕府をおそった。義盛の子、朝比奈義秀らの奮戦により、無勢の和田側は力つきて敗北した。
江ノ電の踏切を渡ると、石で積みあげた小さな丘境に20基余りの五輪塔が並んでいる和田塚がある。この塚はもとは無営常堂塚といわれていたが、明治25年(1892)道路工事の際、塚の一部から人骨がでたことから、和田義盛一族らの墓地であるといわれ、和田塚といわれるようになった。
【梶原景時】
侍所所司。教育があり和歌を詠んだ。石橋山の戦い(源氏vs平氏)で源頼朝を救ったこで重用されたが、源義経と対立した。
ゆかりの地
社伝では、建久元年(1190)の創建と伝えられ、祭神は鎌倉権五郎景正で、梶原地区の鎮守である。
源頼朝の死後、正治元年(1199)、梶原景時は鎌倉幕府内部で起こった梶原景時の変(梶原景時vs御家人)で、幕府から追放され一族が滅ぼされた。
【比企能員】
源頼朝からの信頼が厚かった側近。十三人の合議制の一人。
ゆかりの地
比企氏は武蔵国比企郡を本拠とする藤原氏系統の武士団。比企能員の養母比企尼は初代将軍源頼朝の乳母であったことから、頼朝挙兵直後から一族は活躍した。尼とその養子、能員は鎌倉の大町にある谷に屋敷を構えた。のち能員の妻が二代将軍源頼家の乳母となり、能員の娘・若狭局は頼家の側室となって一幡(源頼家の長男)を生んだことにより、能員は頼家政権下で重用された。
頼朝の死後、建仁2年(1203)に起きた比企能員の変(北条氏vs比企氏)で、北条氏討伐を企てたが北条政子に知られ、名越の北条邸にて謀殺される。後に一族も北条氏によって滅ぼされた。
一幡之君袖塚は、比企一族とともに没したとき、焼け残った一幡の袖を埋めたと伝えられている。
【三浦泰村】
源頼朝に従った有力御家人。評定衆となり北条氏に並ぶ権力を持った。
ゆかりの地
宝治元年(1247)、宝治合戦(北条氏vs三浦氏)では、御家人安達景盛(安達盛長の子)の陰謀で、御家人三浦泰村ら三浦氏一族は謀反の疑いをかけられ、かねてからの宿敵の北条氏(五代執権北条時頼)によって攻められ、法華堂に追いつめられた一族ら500余人は大倉やぐら群の下辺りで自決した。