頼朝の死後、和田一族は侍所別当和田義盛とともに、のちの評定衆の原型となる13人の合議制の一員に名を連ね、幕府内で権力を握った。
建暦3年(1213)、和田合戦(北条氏vs和田氏)では、義盛の甥和田胤長などの一族の何人かが、頼家の遺児をかついでの幕府に対する陰謀に荷担したとの嫌疑に端を発し、和田氏一族が峰起して幕府をおそった。義盛の子、朝比奈義秀らの奮戦により、無勢の和田側は力つきて敗北した。
江ノ電の踏切を渡ると、石で積みあげた小さな丘境に20基余りの五輪塔が並んでいる和田塚がある。この塚はもとは無営常堂塚といわれていたが、明治25年(1892)道路工事の際、塚の一部から人骨がでたことから、和田義盛一族らの墓地であるといわれ、和田塚といわれるようになった。