一時期、筥崎宮近くに住んでいたこともあり、よく参拝に出かけた神社である。特に9月の放生会(博多三大祭り)の時には、参道にりんご飴やお好み焼き、焼きイカなどの露店が約700軒も立ち並び、昼夜問わず沢山の人で賑わう。
福岡藩初代藩主黒田長政が慶長14年(1609)に寄進した一の鳥居 や、「観応元年(1350)」銘の石打籠(社伝では千利休の献納となっているが、確証はない)などとともに、国重要文化財となっている。
お潮井は、筥崎宮前の海岸の真砂を「お潮井」といってこの砂で身を清め、家の入り口にお くと、禍わいの入ってくるのを防ぎ福を招くと云われている。御神木「筥松」の脇に、「ホークスの選手の優勝祈願」の大きな絵馬がかけられていた。
筥松は応神天皇がお生まれになったときの御胞衣を箱に入れ、この地に納めたしるしとして植えられた松である。楼門の敵国降伏は、桜門正面に高々く揚げられてある「敵国降伏」の額の御宸翰は、神佛の加護によって敵国が降伏するようにとの願文である。
「筥崎宮(祭神応神天皇・神功皇后・玉依姫命)がある。延長元年(923)に筑前国穂浪郡大分宮(現、飯塚市大分)より現在地に遷座されたと伝えられる。大分県の宇佐八幡宮・京都府の石清水八幡宮とともに、日本三大八幡宮に数えられ、『延書式』神名帳に記載される式内社でもある。文永11年(1274)の元冠では筥崎宮は焼失し、現在の本殿と拝殿は大内義隆により天文15年(1546)に再建され、楼門は小早川隆景により文禄3年(1594)に造営されたものである。」(※)
「日蓮上人は文応元(1260)年、時の鎌倉幕府に提出された建白書「立正安国論」の中で外国からの侵略を予言され、それは文永の役(1274)、弘安の役(1281)と二度の元軍の侵攻を適中した。その古戦場である東公園に当時の国難をしのび、戦闘や暴風雨で尊い生命を失った両国の戦没者の霊を慰め、世界の平和を祈るために文永の役亀山上皇銅像と共に日蓮上人銅像の建立を発願された。」(※)
蒙古襲来当時の両国の武器や後世に描かれた元冦絵など収集され、それを中心にチベット仏教用具、アイヌ民族史料、種子島伝来から日清戦争までの間に使用された鉄砲などの歴史上の貴重な史料、文献が展示されている。
「鎌倉時代中期、「文永の役」と「弘安の役」の二度元軍侵攻があった。
文永の役は、文永11年(1274)10月、3~4万と見られる元・高麗連合軍に対馬が襲われ、続いて壱岐が制圧された。伝令が京都と鎌倉へ飛び、九州の御家人が太宰府に集結した。博多に上陸した元軍が、火器「てっぽう」を用いたため、日本軍は苦戦を強いられたが、徐々に集団戦に慣れたこと、日本軍の団結が固かったこと、また元軍の矢が尽きたこともあり、元軍は陸から撤退した。『高麗史』などには、その夜中の暴風雨で艦船が難破したと記載されている。」(※)
「二度目の弘安の役は、弘安4年(1281)5月、元・高麗連合軍は、征服した南宋の兵も加えた14万の大船団を仕立て襲来し、対馬・壱岐を制した後、最大で高さ3mに及ぶ防塁に阻まれた。元軍の戦法を熟知した日本軍は優勢に戦いを進め、連合軍を海上へ撤退させた。そして文永の役と同様、海上は折しも大荒れとなり、船団は壊滅した。2度の元寇をはね返すことができた。」(※)
武者人形(博多人形)は、元軍兵と武者の戦闘する姿を模したこの博多人形は、人間国宝として名高い小島予一の師匠であった白水六三郎の作品である。
今回の九州旅行の最後は、やはり7年間(粕屋郡粕屋町)住んでいた懐かしい福岡で連泊することにした。午前中に櫛田神社、筥崎宮、東公園を回り、午後にはホテルオークラ福岡に戻った。
夕方、福岡で仕事をしていた頃の後輩Mくんとホテルロビーで会うことができ、今の仕事や生活の様子などを聞かせて貰った。(これからも健康で活躍される事を祈っています)その夜には会社の後輩AくんとKくんの二人にも会うことができ、中州でふぐ料理を一緒にいただく。そして、ひれ酒の量が増えるにつれて三人の楽しい会話で盛り上がった。(どうも、ありがとう!)
最終日の昼、粕屋町で生活していた頃、近くに住んで見えたNさんご夫妻とお会いする機会があった。当時、同じ町内で少年ソフトボールの監督をされておて、自分の息子は随分とお世話になりました。(これからも、お付き合いをよろしくお願いします)
勤続30年記念の九州一周旅行も福岡で終わり、福岡空港から帰りの飛行機に乗る。丁度窓側に座ることができ、着陸直前には雲の上に聳え立つ美しい富士山の写真を撮ることが出来た。