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大分空港~高崎山自然動物園~別府地獄めぐり 「崇福寺は鎌倉時代の仁治元年(1240)に大宰府に創建され、寛元元年(1243)に承天寺ともに官寺となったが、天正14年(1586)、兵火により焼失。慶長5年(1600)、福岡藩初代藩主黒田長政により現在地に移建され、黒田家の菩提寺となった。本堂裏の黒田家墓地には・黒田孝高(加水)・長政を始め、一門の墓がある。
山門は福岡城本丸の表門移築したものである。」(※)
唐門は名島城(現在の福岡市東区)の門を移築したものである。
墓所の写真は藤水門から撮影したものです。
「黒田孝高(官兵衛・如水)は播磨国(兵庫県)の大名・小寺氏に仕えていたが、長篠の合戦で織田信長が二十代当主武田勝頼を破ったことを知り、信長の将来性に期待し、小寺氏共々信長の配下に入った。孝高は信長から山崎1万石を与えられ、豊臣秀吉の参謀となるよう指示された。天正9年(1581)の鳥取城の兵糧攻めを提案したり、翌年の毛利氏との備中高松城の水攻めを成功に導くといった功績をあげている。本能寺の変の直後に、毛利氏との和睦を秀吉に進言したのも孝高とされる。その後も数々の武功をあげたが、秀吉死後は徳川家康に接近し、関ケ原では東軍として戦った。最後は筑前国(福岡県)52万石の大名となり、生涯を終えた。
黒田長政は秀吉の軍師・黒田孝高の長男。父と同様キリシタン大名で、もともとは信長に仕えていた。天正6年(1578)、父・孝高が、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するため敵城に赴き、逆に捕縛される事件が起きた。なかなか戻らない孝高が村重に寝返ったと見た信長に、長政は処刑されそうになったが、竹中重治の機転で救われた。謀略を得意としていた父に比べ、賤ヶ岳の戦い、九州攻め、朝鮮出兵での先鋒など勇猛ぶりが目立つが、関ケ原の戦いのときは、交渉によって西軍の小早川秀秋、吉川広家を東軍へ寝返らせ、智略の才を発揮している。秀吉の忠実な家臣であったが、秀吉死後は石田三成と敵対し、家康につき、大坂夏の陣では豊臣方と戦った。」(※)
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