織田信長

週末ウォーキング / 人物一覧(ゆかりの地)

ゆかりの地

那古野城
名古屋城 那古野城跡石碑(撮影 2018.9.15)

 16世紀前半、今川本家の氏親は尾張進出の拠点として、現在の名古屋城の二の丸の辺りに柳ノ丸を築城した。柳ノ丸には氏親の末子氏豊が入ったが、天文7年(1538)ころに尾張守護代の一族であった織田信秀がこれを奪い、那古野城と改称した。信秀の子として天文3年(1534)に生まれた織田信長は、信秀から那古野城を譲られた。

清洲公園 織田信長公像
清洲公園 織田信長公像(撮影 2012.2.12)
清洲城 模擬天主閣
清洲城 模擬天主閣

 弘治元年 (1555)、織田信長が主家を破って入城して以来、慶長15年(1610)の「清洲越」まで、尾張の中心都市として栄えた。清洲城は信長の拠点であり、本能寺の変後の、織田家の相続をめぐる「清須会議」や、小牧・長久手の戦いの際の信雄の本陣などとして、戦国史の転換点に重要な役割を果たした。

熱田神宮
熱田神宮 本宮拝殿
熱田神宮 信長塀
信長塀

 永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間出陣の時、当神宮に必勝祈願をしてみごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)である。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つである。

岐阜城
岐阜城 天守(撮影 2012.2.11)
岐阜城 織田信長公座像
織田信長公座像

 織田信長は、尾張の武将、織田信秀の子として天文3年(1534)に誕生。父信秀は、勝幡城の一城主にすぎなかったが、やがて那古野城を奪い、尾張最大の勢力に成長する。ところが、信秀は42歳で急逝。父の遺志を継いだ信長は、尾張平定に乗り出した。

崇福寺 織田信長父子の墓碑
崇福寺 織田信長父子の墓碑(撮影 2012.2.12)
崇福寺 織田信長父子の墓碑
織田信長父子の墓碑

 天正10年(1582)本能寺の変で、織田信長とその子信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室小倉氏がその遺品を送り、位牌を安置した。信長、信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さは139cm、巾39cm、厚さ30cm、位牌形の石碑で縦に両分して、父子の法名を左右に並べて刻んである。

崇福寺 織田信長公父子廟(位牌堂)
崇福寺 織田信長公父子廟(位牌堂)(撮影 2012.2.12)

 墓碑の右側に位牌堂があり、土壇の上に4m四方の格子塀に囲まれて、宝形胴葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置してある。

織田信長公像
岐阜駅前 織田信長公像(撮影 2011.9.21)
織田信長公像
織田信長公像


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