ゆかりの地
16世紀前半、今川本家の氏親は尾張進出の拠点として、現在の名古屋城の二の丸の辺りに柳ノ丸を築城した。柳ノ丸には氏親の末子氏豊が入ったが、天文7年(1538)ころに尾張守護代の一族であった織田信秀がこれを奪い、那古野城と改称した。信秀の子として天文3年(1534)に生まれた織田信長は、信秀から那古野城を譲られた。
弘治元年 (1555)、織田信長が主家を破って入城して以来、慶長15年(1610)の「清洲越」まで、尾張の中心都市として栄えた。清洲城は信長の拠点であり、本能寺の変後の、織田家の相続をめぐる「清須会議」や、小牧・長久手の戦いの際の信雄の本陣などとして、戦国史の転換点に重要な役割を果たした。
永禄3年(1560)、織田信長が桶狭間出陣の時、当神宮に必勝祈願をしてみごと大勝したので、そのお礼として奉納した築地塀(ついじべい)である。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つである。
織田信長は、尾張の武将、織田信秀の子として天文3年(1534)に誕生。父信秀は、勝幡城の一城主にすぎなかったが、やがて那古野城を奪い、尾張最大の勢力に成長する。ところが、信秀は42歳で急逝。父の遺志を継いだ信長は、尾張平定に乗り出した。
天正10年(1582)本能寺の変で、織田信長とその子信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室小倉氏がその遺品を送り、位牌を安置した。信長、信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さは139cm、巾39cm、厚さ30cm、位牌形の石碑で縦に両分して、父子の法名を左右に並べて刻んである。
墓碑の右側に位牌堂があり、土壇の上に4m四方の格子塀に囲まれて、宝形胴葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置してある。