弘安8年(1285)、東慶寺は臨済宗円覚寺派、山号は松岡山、開山は八代執権北条時宗の夫人覚山尼、開基は九代執権北条貞時によって創建された。
明治初年の廃仏毀釈の混乱で、仏堂・梵鐘などが他所に移動した。「元徳4年(1332)」銘のある梵鐘は、現在静岡児韮山町の本立寺にある。
鐘楼前に女流作家田村俊子の文学碑が建てられている。
寛永11年(1634)、東慶寺は天秀尼との関わりから徳川家との関係も深くなり、千姫(天樹院)が檀那となって仏殿が建立された。天樹院が建立した仏殿は、現在横浜の三渓園(旧東慶寺仏殿)にある。
松岡宝蔵は寺宝を展示する宝物館で、昭和53年方丈跡に新築された。
内部の木造聖観音菩薩立像(国文化財)は、もとは鎌倉尼五山第一位の太平寺の本尊で、土紋装飾をほどこし宋風の影響が強い鎌倉後期の作品である。
【お墓】
東慶寺5世住持用堂尼は後醍醐天皇の皇女で、弟護良親王の菩提をとむらうために入寺し、このときから松ヶ岡御所と称したと伝える。
「東慶寺20世住持天秀尼は豊臣秀頼の娘で家康の孫千姫を養母とし、慶長20年(1615)の大坂城落城後、家康の命令で入寺した。入寺の際、家康から望みを聞かれ、開山の縁切寺法が断絶しないようにと願い、許されたといわれている。東慶寺の縁切寺法は古くから伝わっていたのであろうが、天秀尼によって再興され、幕府の公認を得て女性の救済を行ったのである。」(※)
「開山覚山尼は堀内殿といわれ、有力御家人安達義景の娘で、弘長元年(1261)に北条時宗と結婚し、貞時を産んでいる。覚山尼は、時宗が弘安7年(1284)、臨終にさきだって出家したとき、一緒に落髪したという。東慶寺は、縁切寺としてよく知られているが、そうした女性救済をはじめたのは、覚山尼とされている。」(※)
仏教学者の釈宗演は臨済宗僧で、明治26年(1893)、シカゴの万国宗教大会で講演し、欧米に初めて禅を紹介した。
墓地には、前田青邨(日本画家)筆塚、西田幾多郎(哲学者)・岩波茂雄(岩波書店創立者)・鈴木大拙(仏教学者)ら、著名人な文化人の墓が多い。
【イワガラミ 6月】
毎年、5月下旬から6月上旬にかけて、本堂裏のイワガラミが特別公開されている。
本堂裏の崖下に、約30年前に植えたイワガラミ、長い年月を経て崖一面を覆うほどに成長し、毎年美しい花を咲かせる。
【アジサイ 6月】
【イワタバコ 6月】
湿った岩崖に咲くイワタバコは紫色の星形の花で、鎌倉の花の名所になっている。
【秋の花々 9月】
四季折々の花が咲くお寺として、いつも多くの観光客で賑わいを見せる。
【紅葉 11月】
椿の木に、メジロの群れが集まっていた。