散歩コース
大門駅(都営浅草線)~増上寺~芝公園~芝東照宮~宝珠院~東京タワー~愛宕神社~栄閑院~新橋駅(JR東海道線)増上寺の総門である大門は、昭和12年(1937)に作られたコンクリート造である。
「三解脱門は、元和8年(1622年)に再建された、増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などがある。上層部(楼上)には、中央部に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されている。」(※)
平安時代末期、貴族よりも庶民に近い武士が政治権力を握るようになった。このため仏教も、貴族から庶民を対象とするものへと変化が始まった。そんな情勢で登場したのが法然上人(浄土宗開祖)だった。法然が9歳のとき、土地争論が発端で父漆間時国が殺害されたが、父の遺言により、仇討ちを放棄し仏門に入った。
「増上寺は浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計で、昭和49年(1974)、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。「大殿」と称し、石段を登りきった二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に三縁ホールなどを備えている。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめている。」(※)
大梵鐘は、延宝元年(1673)、品川御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたもので、高さ一尺(約3m)、重さ四千貫(約15t)の大梵鐘。時の四代将軍徳川家綱の命により、奥方のかんざしなど多くの寄付を集めて江戸で始めて造られた鐘である。この大梵鐘は、木更津まで響いたといわれ、江戸庶民に親しまれ、多くの川柳を生んでいる。
「今鳴るは 芝か上野か 浅草か」
「江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘」
安国殿は旧堂宇の老朽化に伴い、平成23年(2011) 法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、平成22年(2011)、新しい 安国殿が建立された。
堂内には、恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊が祀られている。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめている。
桜越しに見る東京タワーが美しい。
水盤舎は、清揚院殿(甲府藩主徳川綱重)の霊廟にあったが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築された。
仏足石は足のうらの形(手幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれを仏として礼拝した。
「貞恭庵は、和宮親子内親王ゆかりのお茶室。昭和55年(1980)に移築・改修した。一般公開している。
圓光大師堂は、宗祖 法然上人八百年御忌を記念し、総本山智恩院門跡第八十六世中村康隆猊下と当山法王第八十七世成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、去る平成18年(2006)11月25日、智恩院より 法然上人の御廟の御浄砂を拝領しました。御浄砂を成田台下は御身柄と命名、この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し、平成21年9月に竣工した。」(※)
西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていた
千射子育地蔵尊は、子育て安産に霊験あらたかとされる 西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年(1975)より順次奉安されている。
四菩薩像は、もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。 西向観音像に対し東向きである。正嘉2年(1258)の作と伝えられる古像である。
【徳川将軍家墓所】
現在の徳川将軍家墓所門は、元六代将軍徳川家宣(文昭院)宝塔前中門である。
特別公開中に拝観すると、「大日本東京芝三縁山増上寺境内全図、絵葉書(旧霊廟写真葉書11枚」と「お江~崇源院様~」の記念品が貰えた。
増上寺には、二代将軍徳川秀忠をはじめとして6人の将軍、お江(崇源院)、皇女和宮ら5人の正室、三代将軍徳川家光側室桂昌院(五代将軍徳川綱吉実母)をはじめ5人の側室、及び家光第三子甲府宰綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。
二代将軍徳川秀忠は、徳川家康の三男として誕生。真面目な秀忠は大御所となった家康の後見を受けて武家諸法や禁中並公家諸法度を整備、幕府支配体制の基礎固めた。豊臣秀吉の斡旋で、お市の方(織田信長の妹)の娘・お江と再婚した。
お江は、戦乱の世が続く天正元年(1573)、近江国小谷城主・浅井長政と、お市の方の三女として生まれた。長女は茶々(淀姫)(豊臣秀吉側室)、次女は初(京極高次正室)。
六代徳川家宣は、家光の三男綱重を父として寛文2年(1662)に出生。宝永6年(1709)将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治り刷新をはかり、生類憐れみの令を廃止するなど正徳の治をなしとげたが、在職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)51歳の生涯を閉じた。
七代徳川家継は、家宣の第3子として宝永6年(1709)出生。父の薨去、兄二人の早世でわずが3歳にして七代将軍職を継ぐ。正徳5年(1715)皇女八十宮と結婚するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6年(1716)薨去。
九代徳川家重は、正徳元年(1711)吉宗の長子として出生。重度の歯ぎしりにより言語も不明瞭であった云われる。
十二代徳川家慶は、家斉の第2子として寛政5年(1793)に生まれる。天保の改革に着手するも成果なく、幕府は没落の道を歩むこととなる。嘉永6年(1853)、あわただしい世情の中の薨去。
十四代徳川家茂は、家斉の養子、斉順の長子として弘化3年(1846)に生まれる。安政5年(1858)将軍の養子となり十四代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院宮)を正室に迎えた。
和宮親子内親王は、兄孝明天皇即位の年、仁孝天皇第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。
現在の合祀塔には、甲府藩主徳川綱重(家光の三男)をはじめ、桂昌院(家光側室)、篤姫(天璋院)(家斉正室)、勝田輝子(月光院)(家宣側室)ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の婦人や子女の多数が埋葬されている。なお、宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られていた宝塔である。
慶安年間(1648~1652年)、三代将軍徳川家光の寄進・建立とされ、御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門である。
「東京プリンスホテル入口右側に、七代家綱(有章院)霊廟二天門(国重要文化財)が残っている。
御成門は増上寺の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられていたので、「御成門」と呼ばれるようになった。はじめ「 御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治25年の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て 芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築された。」(※)
「平安中期に伊勢神宮の分霊を肥ったと伝えられ、江戸時代には芝神明と呼ばれていた。この境内には芝居小屋・見世物小屋が常にかかっていた。 「め組の喧嘩」で知られる歌舞伎の「神明恵和合取組」は、文化2年(1805)この境内でおこっため組の火消しと相撲取りのけんかを扱ったと云われている。東京十社の一つである。」(※)
米国第十八代大統領ユリシーズ・グラント将軍は、明治12年(1879)7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの松を植えた。
東インド艦隊司令官のペリー提督は、日本を開国させるという使命を帯び、断固たる決意のもと日本にやって来た。ペリーの日本遠征は、第一の目的は日本に開国させることではあったが、ほかにも狙いがあった。琉球の占領と小笠原の補給基地化である。これは、幕府に開国を拒否された場合のことを考えての作戦だった。
芝公園は日本で最も古い公園の一つ。明治6年の太政官布達によって、 上野、 浅草、 深川、飛鳥山と共に芝の5カ所が、日本で最初の公園として指定された。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後の政教分離によって境内の部分が除かれ、環状の公園になった。
記念碑は、遺米使節渡航より百周年を記念して建てられた。
旧台徳院霊廟惣門は、寛永9年(1632)三代将軍 徳川家光が建てた二代将軍徳川秀忠の墓所いわゆる南廟の正門。入母屋唐破風、鋼板葺き。三間一戸八脚門朱塗り和様建築。同廟の勅額門御成門丁字門は狭山不動尊に移された。
旧台徳院霊廟惣門の左右に安置されて寄木造り、砥粉地彩色の 仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っている。本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品である。
伊能忠敬は、延享2年(1745)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び文政元年(1818)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
芝丸山古墳は、全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅22mほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高16mの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
当宮御祭神は、 徳川家康の生前自ら駿府城に於いて祭儀をなされた寿像と伝えられる。元和2年(1616)4月17日公の薨去の際、公より「像を増上寺に鎮座させ永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。明治以降、神仏分離令により芝東照宮となった。
三井寺の開山智証大師が、858年竹生島で奇縁に依り彫られ、その後、源家に伝わり再興に当り初代将軍源頼朝深く信仰し天下を平定される。また、徳川家康も厚く信仰され天下の平和を築かれ除波弁財天と改称された。
東京タワーは、昭和33年(1958)10月14日竣工、同年12月23日に完工し、東京のシンボル・観光名所として知られる。大展望台1階(145m)には展望カフェ「カフェ ラ・トゥール」やClub333特設ステージがある。大展望台2階(150m)からの眺めが素晴らしい。
海抜26mにある愛宕神社に上がる86段の急峻な「出世の石段」には、『寛永11年(1634)、讃岐(香川県)高松藩士の曲垣平九郎が騎馬で石段をのぼり、社前の梅の枝を手折り、徳川家光に賞された逸話』が残る。
徳川家康が征夷大将軍に任じられた慶長8年(1603)、愛宕山に愛宕神社を創建した。祭神は火の神(火産霊命)・水の神(罔象女命)・山の神(大山祇命)などで、火伏せの神として広く信仰されている。
七草火焚き祭りは、毎年1月7日に1年お守りいただいた「お札・ダルマ」を焚き、その火に当たって無病息災を願う行事で、参列者には七草粥が振る舞われる。
「愛宕山は、明治30年に出た 『新撰東京名所図会』では、上野も湯島も山王も九段も、ここにはおよばない、東京第一の眺めだろうと書いているが、せっかくの高さがとくに近年の高度成長以後、ビルの谷間に沈没しているような状態だ。愛宕神社の南側に、ラジオ放送開始30周年を記念して、昭和31年(1956)に開館した NHK放送博物館がある。この地は大正14年(1925)に本放送を開始したJOAK愛宕山放送局跡で、ラジオからテレビ放送に至る歴史を示す放送機器・放送原稿・文献などが展示されている。」(※)
岩原謙三は石川県生まれ。三井物産ロンドン支店長、ニューヨーク支店長を経て、明治41年(1908)常務。この間、芝浦製作所社長など歴任。社団法人東京放送局初代理事長として、全国放送網の計画をまとめ推進する。大正15年(1926)8月6日、日本放送協会初代会長に就任した。
愛宕神社とNHK放送博物館のあいだにある細い階段を下り、桜田通りの手前を右折すると右側に栄閑院がある。墓地には、杉田玄白の墓がある。
「杉田玄白は、解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に着手した。しかし、 玄白はオランダ語が全くできなかったため、一緒に腑分けを見ていた前野良沢の語学力を頼りにして、翻訳作業を進めた。翻訳作業開始から3年半、安永3年(1774)に『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』は、白の名を一躍高めることになる。その後、 玄白は浜町で開業。高名な 玄白に診療してもらおうとたくさんの患者が訪れ、年に1000人余りを診療する繁昌ぶりをみせた。」(※)
栄閑院は「猿寺」といい猿の像を門柱におくのは寛永(1624~44)のころ猿回しの泥棒が住職に改心させられ、猿を寺に残して諸国行脚に出たあと、猿が人にかわいがられたからという。
烏森神社の社歴は古く、平安中期の平将門の乱に際して、征討将軍藤原秀郷が戦勝を祈願したと伝えられている。明治以降は5月4・5・6日を祭日とし、夏祭りのはしりとしてその名をうたわれている。
C11 292号は昭和20年(1945)2月11日、日本車輌株式会社で誕生した。3年間余りの戦争で物資もなくなりつつあった頃の誕生である。鉄道100年を記念して、新橋のSL広場に設置された。
乙女と盲導犬の像は、昭和44年(1969)に東京虎ノ門ライオンズクラブにより建立された。この像を出発点として日本で初めての盲導犬パレードや募金活動が行われ、盲導犬への理解が広がる拠点となった。
愛の像と泉は、東京新橋ライオンズクラブより平和を願い、20周年記念事業として昭和51年(1976)に寄贈された像である。
「汽笛一声新橋を はやわが汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」明治5年(1872)、新橋・ 横浜間にわが国最初の鉄道が開通した。現在の新橋駅は大正3年(1914)に京浜線が開通したときの烏森駅で、当時の新橋駅は東側、東京湾よりにあった。
D51形機関車は昭和11年(1936)に誕生した機関車である。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍した。展示されている動輪は、昭和51年(1976)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅に設置したものである。
鉄道唱歌の碑は、昭和32年(1957)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立された。
散歩コース
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