明治元年、明治天皇が准勅祭神社として幣帛を捧げられ、
東京の鎮護と万民の平安を祈願されたお社を東京十社と言います。
昭和50年、昭和天皇のご即位50年を奉祝して、
元准勅祭神社である東京十社を巡拝する企画が立案されました。
十社をめぐる道のりは、十里七丁(約40km)。
東京の今昔に思いを馳せ、格式ある十社を訪ねる旅に出てみませんか。
(東京十社めぐりホームページより)
寛永元年(1624)、菅原道真の子孫長盛が、京都にあって見た夢に、生家伝来の道真作という八幡神像を、江戸永代島の白羽のある小祠に祀れ、というお告げがあった。さっそく江戸に出て、永代島に白羽の矢のある小祠を発見、ここに神像を安置し、幕府に願いでて、寛永4年(1627)、社殿を創建した。
平安中期に伊勢神宮の分霊を肥ったと伝えられ、江戸時代には芝神明と呼ばれていた。この境内には芝居小屋・見世物小屋が常にかかっていた。 「め組の喧嘩」で知られる歌舞伎の「神明恵和合取組」は、文化2年(1805)この境内でおこっため組の火消しと相撲取りのけんかを扱ったものである。
由緒は、今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、初代将軍源頼朝が安房国の洲崎明神(現、千葉市館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とする。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊が、宇賀之売命(お稲荷様)を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に、太田道灌が、素盞鳴尊(天王様)をそれぞれお祀りした。
八代将軍徳川吉宗が建立させた。元来、赤坂紀州邸の産土神氷川神社は、当時古呂故が岡にあった。紀州家当主から将軍に就任した吉宗は、社を現在地に移し、社殿を享保15年(1730)に建立した。木造銅板葺きで本殿は一間社流造、拝殿は三間四面の朱漆塗で、華美な彫刻や組物をつけず、享保の治といわれた質朴な政策気風を反映した。
明暦3年(1657)の明暦の大火で社殿が類焼したことから、四代将軍徳川家綱は社地を現在地に移し、万治2年(1659)に再建した。明治に入ると、神仏分離・廃仏毀釈の運動がおこり、祭神山王権現を『古事記』にもとづいて大山咋神、社号も日枝神社に改めた。国宝指定の桃山建築様式の華麗な社殿は、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、現在は鉄筋コンクリート進で再建されている。
天暦2年(948)加賀一宮白山神社(石川県)が本郷元町に移ったことがあげられている。以来、本郷元町の鎮守であったが、元和2年(1616)白山御殿(現 小石川植物園)の地に移り、三たび現在地へ移った。明暦元年(1655)五代将軍徳川綱吉が館林殿といわれていたころの別邸白山御殿造営のために現在地に移ったと伝えられる。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神で、合殿に速玉之男命、事解之男命を祀っている。
境内には大銀杏、関神社がある。関神社は百人一首にその歌がある蝉丸法師が病気で髪が抜けた時、姉である坂上姫の髪でつくったという伝説により、床山・理容業界の神とされる。このかたわらには毛塚がある。
元来この地域は甲府藩主徳川綱豊(のち六代将軍徳川家宣)の屋敷地であり、綱豊もこの地で生まれた。宝永元年(1704)綱豊が綱吉の養嗣子として江戸城西の丸に移ると、屋敷地は地主神の根津権現に賜り、あらためて大社殿が造営されたものである。
社殿の創建は古く、天平2年(730)といわれる。祭神は大己貴命(大国主命)であるが、12世紀初頭に、現在の皇居に居館を設けた江戸氏の氏神と伝えられる江戸大明神を合祀した。さらに朝敵の汚名をきせられながらも坂東の民衆に敬愛されてきた平将門の霊を、いつしか境内鎮守の明神として祀るようになった。
寛文2年(1622)、太宰府天満宮の神官大鳥居信祐が、神木で菅原道真像をつくり、亀戸村に祀ったのが始まりという。翌年から心字池・太鼓橋など、太宰府天満宮を模して造営された。境内の梅・藤の花が名所となり、学問の神様ということもあって、江戸時代以来行楽を兼ねた多くの参詣客を集めてきた。昭和20年(1945)の東京大空襲で全焼したが、現在では太鼓橋と社殿がコンクリート造で再建された。