散歩コース
白山駅(地下鉄三田線)~白山神社~吉祥寺~六義園~駒込駅(JR山手線)旧白山前町は古くは小石川村に属した。元禄12年(1699)に町屋を開いた。町名は、白山神社の境内の前通りにあったので名づけられた。明治2年(1869)、白山表門前、白山社裏門前、小石川数寄屋町、妙清寺・常検寺及び浄心寺門前を併せた。
「天暦2年(948)加賀一宮白山神社(石川県)が本郷元町に移ったことがあげられている。以来、本郷元町の鎮守であったが、元和2年(1616)白山御殿(現 小石川植物園)の地に移り、三たび現在地へ移った。明暦元年(1655)五代将軍徳川綱吉が館林殿といわれていたころの別邸白山御殿造営のために現在地に移ったと伝えられる。東京十社の一つである。」(※)
境内には、源氏ゆかりの八幡神社と白旗桜(旧江戸三名桜の一つ)であったが、枯死し現在あるものはその後継樹である。
梅雨の風物として、約3,000株の多様なあじさいが、白山神社の境内から白山公園にかけて「文京あじさいまつり」が開催される。
「文京あじさいまつり」期間中、紫陽花コンサートのイベントが開催されていた。
神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場である。起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の"さいかちの木"の下で毎朝休むことを例とした。土地の人々は、"駒込辻のやっちゃ場"と呼んで親しんだ。
山門は享和2年(1802)に再建、両袖潜戸付四脚門。本瓦葺・切妻進の屋根、大棟と降棟の先端を飾る鬼瓦などに重厚なものが感じられる。門に掲げてある「旃檀林」の扁額は裏面に享和2年(1802)6月の銘があるが、安永7年(1778)焼失の拝領門の扁額の拓本によって復原したものと考えられる。
「太田道藩が江戸城築城のさい桔梗門の外に井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出て来たので、現在の和田倉門の所に「吉祥庵」を建てたのが始まりであると伝えられている。
明暦の大火(1657年)で類焼して、神田駿河台からこの地に移ってきたが、東京空襲で大部分を焼失、江戸時代の建物は山門と経蔵を残すだけである。」(※)
江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所「栴檀林」として知られ、経蔵は図書収蔵庫である。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の基礎をもとに、文化元年(1804)古いきまりで再建したものと考えられる。旧経は、貞享3年(1686)に建造し、安永7年(1778)に焼失と伝えられる。昭和8年(1933)に大修理を行った。
「二宮尊徳は江戸末期の農政家。通称、金次郎。人物を認められて小田原藩領下野桜町の荒廃を復興したことで知られる。その後、常陸その他諸藩、諸村の復興に農政家として寄与する活躍をした。
榎本武揚は明治新政府の安定とともに人物をかわれて海軍中将、ロンア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務相などを歴任して子爵となった。」(※)
内庭大門は岩崎家所有当時の様子を残しているが、現在の門は東京市によって再建されたものである。かっては門をくぐった先の枝垂れ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があった。
枝垂れ桜は、3月下旬頃の満開の時期、枝いっぱいに見事な花を咲かせた薄紅色の滝のような姿は圧巻である。
五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主柳沢吉保が元禄15年(1702)に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園である。当園は池をめぐる園路をあるきながら移り変わる景色を楽しむ繊細で温和な日本庭園である。
「六義園の由来
中国の詩の分類法(詩の六義)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来したものである。柳沢吉保自身の選した「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼んでいたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから、「りくぎえん」と読んだ。」(※)
池に浮かぶアーチ型の岩島が蓬莱島は、中国の神仙思想において、修行により不老不死になった仙人が住むとされる思想において、修行により不老不死になった仙人が住むとされる島のひとつで、日本庭園では古くから不老長寿を願って造られた。
「和歌のうら 蘆辺の田露の 鳴くこゑに 夜わたる月の 影ぞさびしき」の歌から名付けられた石の橋。2枚の大石の重量感が、あたりの雰囲気を引き締める。
6月の園内では、あじさいの和品種が見られる。
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