散歩コース
白山駅(地下鉄三田線)~小石川植物園~旧東京医学校本館~茗荷谷駅(地下鉄丸ノ内線)「小石川植物園がある旧町名は白山御殿町といい、五代将軍徳川綱吉が将軍になる前の館林藩主時代、その下屋敷があった所で、もと白山神社の跡地だったので白山御殿と呼ばれていた。綱吉没後の正徳3年(1713)に御殿は廃絶されたが、八代将軍徳川吉宗のとき、御殿跡地を薬園添地にあてることになり、広大な園地になったのである。」(※)
「小石川植物園の前身は、徳川幕府直轄の小石川御薬園である。寛永15年(1638)三代将軍徳川家光は麻布御薬園を現在の麻布広尾の光林寺の付近に、大塚御薬園を現在の音羽護国寺の位置に開設した。大塚御薬園 廃止され、大部分の薬草は麻布御薬園に移された。」(※)
旧養成所の井戸付近のカンザクラが満開になっていた。
分類標本園には、植物の多様性が理解しやすいように、主に東アジアの高等植物約500種を分類体系にしたがって配列している。植物によって、類縁が近く互いによく似ている場合もあれば、類縁が遠く特徴が大変違っている場合もあるのはそのためである。
養生所は明治初年に廃止になり、大学東校(医学校)管理を経て、明治10年(1877)から東京大学理学部付属の植物実験場となって今日に至っている。
明治9年(1876)に導入された日本でもっとも古いスズカケノキの一つである。
ユリノキは、明治の初め頃に植えられた我が国でもっとも古い株の一つで、理学部植物学教室の員外教授として植物園で活躍した伊藤圭介が米国からもらい受け種子を育てたものである。
「日本庭園の奥にある建物はかつての旧東京医学校本館である。
小石川分館は東京大学に現存する最古の学校教育用建物であり、明治初期の木造疑洋風建築の貴重な歴史遺産である。小石川分館の前身となる旧東京医学校本館は、明治9年(1876)工部省営繕局により本郷キャンパスに建設された。」(※)
将軍綱吉の幼児の居邸であった白山御殿と蜷川能登守の屋敷跡とに残された庭園が往時の姿をとどめる庭園である。
約50種の園芸品種あわせて100株あまりが集められている。
メタセコイア属は、第三紀層から出る化石などの結果、三木茂博士により昭和16年(1941)に発表された化石層である。発表当時は約100万年前に絶滅したものと考えられたが、昭和20年(1945)に中国四川省の奥地でこの属の現生種が発見され、「生きた化石」として世界的に有名になった。
昭和40年(1965)に本郷で解体され、昭和44年(1969)には、理学部付属植物園(小石川植物園)内の現在地へと移築されている。建物は昭和45年(1970)に国の重要文化財に指定され、平成13年(2001)11月から、東京大学総合研究博物館の小石川分館として一般公開されている。
応永22年(1415)浄土宗中興の祖、了誉聖冏がこの地で庵を開いた。その後、徳川家康の生母於大の方が現在の伝通院に葬られ、聖冏の開いた庵を移し「伝通院」とした。
「この地に石川啄木の住まいがあった。その家で啄木が最後に創作した歌が右の写真の2首である。
北岩手郡渋民村(現在は盛岡市)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年(2007)より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきた。そして、平成27年(2015)3月、多くの方々のご協力で、この歌碑が誕生した。」(※)
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