全長約12cmでスズメよりも小さい。緑がかった背と暗褐色の羽を持ち、目の周りの白い輪が特徴であり、名前の由来ともなっている。
「あたみ桜は毎年1月上旬~2月に咲くインド原産の寒桜の一種で、明治4年(1871)頃イタリア人によってレモン・ナツメヤシとともに熱海にもたらされ、その後先人たちの努力により増殖が行われた。市内の多くの場所に植栽され、下田の御用邸(昭和47年)や伊勢神宮(昭和48年)、東宮御所(昭和51年)に献上されたことにより、広く知られるところとなった。」(※)
熱海梅園は明治のはじめ、医祖長与専斉先生が「国民の健康の元をつくるには温泉と自然に親しむことが第一」と、熱海梅園を開くことを提唱。横浜の豪商茂木惣兵衛氏らがこれに応えて、明治18年(1885)に今の梅園めあるところ山林二町五反(2・5ヘクタール)を開いて、梅・松・桜・桃・楓・杉・柿・柳など3千本を植見たのがはじまり。
「中山晋平は明治20年(1887)長野県に生まれ、明治45年(1912)東京音楽学校(現、東京芸術大学)卒業。今尚名曲として伝わる「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などの作曲で知られる。
「雨降りお月」「浪浮の港」「東京音頭」など数々のヒット曲を作り出した中山晋平が晩年を過ごした熱海市西山の住居を、梅圏内に移築したもの。館内には作曲に使用したピアノや、直筆の譜面などが展示されている。」(※)
軽便鉄道の創立者・雨宮敬次郎は、熱海をこよなく愛し熱海の街の発展を思うことから、「熱海-小田原」間の人車鉄道、軽便鉄道の開拓にのりだし困難を排除して遂に実現させたものである。
芭蕉句碑
梅が香に のっと日の出る 山路かな
「韓国庭園は、平成12年(2000)9月23日に行なわれた森喜朗内閣総理大臣と金大中大統領による日韓首脳会議の翌日、両首脳が熱海梅園を訪れ、園内を散歩し歓談された。日韓友好の絆を深めたこの会談を記念し、日本国と韓国の友好と世界の平和が永久に続くことを願い、朝鮮時代の伝統様式と手法を取り入れて作られたのが韓国庭園である。
澤田政廣記念美術館は、文化勲章受章者・熱海市名誉市民である熱海が生んだ偉大なる芸術家澤田政廣の作品を多数展示。93年間の生涯における作品は、多くの木彫作品を始め、油絵・リトグラフ・水墨画・陶画・書と極めて多彩である。」(※)
明治の文豪尾崎紅葉の小説金色夜叉では、貫一とお宮とその母と、宮をよこどりした富山の四人の初の出逢いが梅園。貫一の梅とお宮の梅は、これに因んで植えられたものである。