正面入り口から入ると大池に沿って散歩園路が走り、その水面に影を落とす三渓園のシンボルになっている三重塔は、京都燈明寺から移された本格的な三重の塔で、室町時代中期の建築とされている。
「三渓園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名富太郎)が、東京湾に面した本牧三之谷と呼ばれる谷あいの地に造りあげた、広さ約175,000㎡の日本庭園です。明治39年(1906)に一般に公開された外苑と、三渓が私庭としていた内苑の2つの庭園からなり、京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物と四季折々の自然が調和した景観が見どころとなっている。」(※)
三渓の業績やゆかりの資料・美術品などを紹介されている。
【内苑】
御門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三渓園に移築されたもの。規模の大きい薬医門の遺構として貴重なものです。
白雲邸は、三渓が隠居所として夫人とともに暮らした数寄屋風建築である。
豊臣秀吉の聚楽第の北殿付近に池に画して建てられ、千利休が設計したと伝えられる臨春閣。現在わが国にのこる唯一の大名別荘建築であり、屋内の九つの部屋には狩野派の筆による「四季花鳥図・琴棋書画図」などの障壁画(複製画)が描かれている。
琴棋書画の間の障壁画は、狩野探幽による「琴棋書画図」である。
浪華の間の障壁画は、狩野永徳による「芦雁図」である。
天楽の間の障壁画は、狩野安信による「四季山水図」である。
次の間の障壁画は、雲澤等悦による「山水図」である。
重要文化財建造物全10棟の内部一挙公開の紹介動画。今回は20年ぶり、2回目の大公開で、内苑(昭和33年の公開までは、原家の私邸であったエリア)の古建築を含め一般公開された。
瓢箪文手水鉢は、豊臣秀吉が愛用したと伝えられる手水鉢で、後年藤堂高虎に賜り、伊賀上野城にあったもの。
旧天瑞寺寿塔とは長寿祝って生存中に建てる墓のこと。豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てた。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てた。この建物はその寿塔の覆堂で、明治38年(1905)三渓園に移築されたものです。
迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせる。
月華殿は徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室に当てたものと伝えられる。その後京都修験宗の三室戸寺金蔵院に移され、大正7年(1918)に三渓園に移築された。
天授院は、もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂といわれている。大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていた。昭和39年(1964)に解体修理を行い、その際慶安4年(1651)の墨書が発見され、建立の年で明らかになった。
金毛窟は、原三渓が大正7年(1918)に建てた一畳台目の茶室である。千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の高欄の手すりをこの茶室4の床柱に使っている。
聴秋閣はもと三笠閣と呼ばれ、元和9年(1623)徳川三代将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監に命じて二条城内につくらさせたものといわれる。その後これを春日局に賜わり、江戸稲葉候邸内に移され、三渓園には大正11年(1922)に移築された。
春草廬は、もと京都の三室戸寺金蔵院にあった月華殿に附属して建てられていた茶室で、織田信長の弟・織田有楽斎(うらく)が建てたものと伝えられる。
蓮華院は、蓮と縁のある茶室である。東大寺三月堂の不空羂索観音が手にしていた蓮華を飾ってあったことから名づけられた。
蓮華院にある竹林が美しい。
【外苑】
大池のほとり、高浜虚子が昭和8年(1933)3月に、三渓園で詠まれた句碑がある。
鴨の嘴より たらたらと 春の泥
園内各所に、黄色のツワブキの花が咲いていた。
横笛庵は、落飾した(尼姿の)横笛像を安置した侘びた草庵風の建物だが、芝棟にアヤメ科のイチハツの花が咲く初夏の一時期、あたかも髪飾りをつけた清楚な女性を思わせる装いとなった。
旧東慶寺仏殿は、寛永11年(1634)、千姫(天樹院)が鎌倉東慶寺の檀那となって仏殿が建立されたものである。 明治40年(1907)三渓園に移築された。
飛騨・白川郷にあった建物。園内にある歴史的建造物の中で唯一内部を見学できる建物です(900~1630)。式台玄関や書院造の座敷など農家ながら立派な接客の空間を備え、寺院に用いられる火灯窓がつけられるなど、飛騨の三長者の一人ともいわれた矢箆原家の豪勢ぶりがうかがわれる。現存する合掌造では最大級の民家です。
待春軒には御やすみ、お茶御随意、待春軒という案内書きがつけられ、初音茶屋と同じ湯茶の接待を行っていたほか、さらに句会・歌会や茶会などの席としても場所を提供していたようです。
「燈明寺は現在廃寺となっているが近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれている。この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定される。昭和22年(1947)の台風で被害を受けた後解体し保存されていたが、昭和62年(1987)に三渓園に移築された。」(※)
「薩摩琵琶のしらべ」で演奏された「演目:勧進帳」の一部。山伏姿に変装した弁慶が白紙の勧進帳を読み上げる話し。
三渓は、芸術家や文学者などの文化人たちと広く交流したことでも知られ、三渓園は美術・文学・茶の湯など近代日本文化の一端を育んだ場所でもある。
三渓園天満宮は、もと間門天神といい、三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものである。昭和52年(1977)三渓園に移されました。
【ウメ 2月】
観梅会(2月)の季節には、園内は「臥竜梅」を始め、約500本の梅が咲き誇る。
臥竜梅は、幹があたかも竜がはうような形をしているので、この名が付いた。このあたりの梅の木は、原三渓が援助した画家下村観山筆の名作「弱法師」のモデルになっている。
【ハス 7月】
早朝観蓮会は、創設者の原三渓は泥の中から清らかな花を咲かせることから俗世間から現れたすぐれた人材にたとえられる蓮の花が、徳の高い花としてとりわけ愛好した。
夏の暑い時期、早期のすがすがしい空気の中で、咲いたばかりの蓮が鑑賞できる。
【菊花展 11月】
愛好家の高い技術により仕立てられた、大菊や懸崖、古典菊などは花見客を楽しませてくれる。
巴錦は、花びらの内側が深紅。外側が黄金色の大変豪華な色が特徴の古典菊である。
厚物は、うろこ状の花弁が中心に向かって整然と組み盛り上がって球状になる花である。
懸崖の基本的な仕立て方。1本の小菊の苗から1年以上かけて無数に枝をはらせる。花は1枝に1花のみである。
管物は、管状の細い花弁が傘状に放出され、中心部はちょこ状になる。下部にやや太めの走り弁がる花である。
だるま作りは、一般的には、6月上旬から中旬に挿し芽をし、摘芯で3本に分け、矮化剤を使用して草状を鉢底から花首迄60cm以下になるように仕立てた作りである。
江戸菊は、元禄時代に始まり主に江戸を中心とした地域で発展した。開花にしたがい花弁が変化し、独特の芸をあらわしすところに特徴がある。
肥後菊は、肥後熊本藩八代藩主細川重賢公が、藩士の徳性向上の一助として栽培を奨励した花。花弁は一重で平弁と管弁に大別される。
大盆栽。盆景、小菊盆栽 など約70点が展示されている。
三渓園の手入れの中で刈り取られた野草や藁、竹、朽ち木なども使い、「旧矢箆原家住宅」の建物や民具と共演させたものである。