平成17年(2005)6月11日から、京急電車2100形の8両編成を特別塗装した「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」(京急ブルースカイトレイン)の運行が開始された。
弘明寺駅に隣接して東に瑞應山蓮華院弘明寺(真言宗)がある。仁王門から石段を登りきると、方形造の本堂(観音堂)がある。寺域は昭和5年(1930)の京浜急行線の敷設で分断され、西側の丘陵地は弘明寺公園になっている。
身代地蔵菩薩は、全ての人々の病気平癒、身体健全を祈願するため奉納された。身体の悪いところと同じ場所をタオルやハンカチでさすり祈願することで、自身や家族の身体を癒してくれる。
弘明寺は横浜市最古の寺。創建の歴史は、約1200年前の天平年間まで遡る。国の重要文化財に指定されている十一面観音立像は、高さ181.7cm、ケヤキ材の一木造で、鉈彫りの典型的な像である。平安後期の作とみられる。
聖天堂は聖天(大聖歓喜天)を彫り安置し、一千座の護摩を焚いて庶民の幸福を祈願したとされる。
本梵鐘は鋳造製の和鐘で、盛り上がった頭部、太い区画線、低い撞座の位置、前に突き出した口縁といった江戸時代に制作された梵鐘がもつ共通の造形になっています。
七ツ石の由来は、養老年間、インドの善無畏三蔵法師が渡来の際、当山の霊域を感得し、陀羅尼を書写して結界を立てた霊石である。
京急弘明寺駅を少し上がった所に弘明寺公園がある。木々に囲まれた小高い丘の上の公園であるが、2階建ての展望台に上がると、遠くに横浜ランドマークタワーがよく見える。
市営地下鉄弘明寺駅と京急弘明寺駅にはさまれた「弘明寺商店街」は、横浜最古の古刹「弘明寺観音」の門前町として栄えた。
大岡川プロムナード沿いは、横浜随一の桜の名所で桜並木(約500本)が続く。
市営地下鉄弘明寺駅近くに「鎌倉街道の石碑」が建っている。石碑の後ろに横浜国立大学附属横浜中学校校舎(国登録)があるが、これは昭和13年(1938)に横浜高等工業学校(現、横浜国立大学工学部)の本館として建造されたものである。
標高50mほどの独立丘で、明治時代から貝塚が知られていたが、小学校の拡張予定地になったために昭和36年(1961)、日本で最初の集落遺跡の全面発掘が行われた。その結果、台地上に縄文時代中期8軒、弥生時代中期・後期151軒、古墳時代前期~後期43軒など約250軒の竪穴式住居跡が見つかった。
三殿台に初めて人が住んだのは今から約4,500年前の縄文時代中期である。人々は、身の回りにある自然の中で狩猟・漁獲・採集の生活をしていた。とくに生活条件のよかった時期で、こうした村のあとは、横浜でも数多く発見されている。
三殿台遺跡で発掘された弥生時代のものでは最も古く楕円形の平面を示し、床の北側に炉が掘られていた。
四本の支柱で支えられた入母屋造りであるが。住居の平面は方形になり北側屋内に「かまど」が築かれ、米が主食として普及しはことを物語っている。
入口左にある三殿台考古館には、出土品や古代人の残した約130点もの遺物や資料を展示してある。
縄を転がした文様が特徴的なので、「縄文土器」と命名され、文様は立体的でダイナミックなものが多い。深鉢という煮焚きに使われている土器が最も多い。
縄文土器に比べると、総じて薄手である。文様は縄文土器より平面的なものが多い。
古墳時代の中頃に朝鮮半島から伝来した、ロクロ形成の素焼きの土器。窯の中で酸素を入れずに焼くので、粘土中の鉱物等が酸化せず、ねづみ色をしていています。平安時代にはこの須恵器から灰釉陶器が生まれ、中世陶器へと発展していきます。
三殿台貝塚は、三殿台遺跡の北側斜面にあります。貝殻や獣や魚の骨が斜面にそって堆積した縄文時代中期の貝層が見つかりました。貝層の中からは縄文時代中期の土器、貝層の上部からは縄文時代から古墳時代にかけての多くの土器や石器なとが見つかっています。
よく晴れた日には、綺麗な富士山を望むことができる。
天満宮入口には、横浜松坂屋より移築された大きな「ゆずの壁画」が掛けられている。
岡村天満宮は、初代将軍源頼朝の家臣が京都北野天満宮の分霊をいただき社を設けたとされる。「学問の神さま」「文化・芸能の神さま」として信仰され、受験生をはじめ多くの参拝者が見られる。
座論梅は、一つの花に八つの実をつける非常にめずらしい「梅の珍種」として知られている。紅梅・うす紅共に八重咲き・中輪咲きがある。
白笹稲荷社は、商売繁昌を守護する神であり、衣・食・住を司る神が祀られている。
境内には受験生が頭を撫でる「天神様の撫で牛」の石牛、力くらべのために奉納された云われる力石がある。
境内には、筆供養(筆塚)と針供養(針塚)の石碑がある。
梅と大寒桜の花が満開で、大変美しい景観である。寒桜の木には、黄緑色した沢山のメジロたちが、いかにも忙しそうに桜の花びらを突っ突いていた。
岡村天満宮から坂を上がった所に岡村公園がある。ここから少し下がった所に、梅の名所でもある岡村梅林がある。梅まつりには、多くの人出で賑わう。
「岡村公園付近は、かって岡村の梅林、または天満宮の梅林と呼ばれ広く市民に親とまれてきたが、時代の移り変わりと共にいつしかその面影が見られなくなった。これを新たな市民の憩いの場としてまた磯子区の新名所として梅林を復活させ、永く後世に残すため、日本発条株式会社の創立40年記念緑化事業の協力を得て整備したものである。」(※)
多目的広場上の道路からは、富士山の眺望が綺麗で、ダイヤモンド富士が良く見られる富士山ビュースポットになっている。
野球場横にある『ゆずの樹』は、岡村から羽ばたいた"ゆず"の二人のデビュー20周年を祝って、平成10年(1998)6月3日にファーストシングル「夏色」が発表した同じ日(平成29年)に植樹された。
久良岐公園は、大きな谷戸が入り込んで水田となっていた所を土砂で埋立て、自由広場、ピクニック広場、散策路、池、桜の林などが整備されて昭和48年(1973)に開園した。園内の北側には、久良岐能舞台がある。
横浜市電1156号は昭和27年(1952)、兵庫県のナニワ工場で製造された。昭和31年(1956)に井土ヶ谷線が開業した際に「祝賀電車」の大役を果たした。
公園の高台からは、遠くに富士山が見られる。
【久良岐能楽台】
久良岐能楽台は、能楽会の池内信嘉氏が囃子方育成のため、大正6年(1917)東京・日比谷に建てたものである。
舞台の由来は、宮越氏が現東京芸大から不用となった能舞台を譲り受け、昭和40年(1965)、地謡座、橋掛かり等の模様を施し、この地に復元しました。この舞台は、大正6年(1917)に俳人高浜虚子の実兄にあたる池内信嘉という人が、離子方養成のため社団法人能楽会として東京日比谷の帝国ホテルの隣に造ったものです。
三方を山で囲まれた土地は、明治末頃から梅。桜、楓や竹など四季折々の木々と草花に恵まれている。