この足湯は、慶長9年(1604)3月、徳川家康が7日間熱海に逗留した史実の400周年記念事業として整備され、平成15年12月10日、熱海温泉組合より熱海市へ寄贈された。
「大湯間歇泉は明治時代中期に噴出が停止した。関東大震災以後再び噴出するも昭和初期に再度噴出が停止した。現在では観光用に、ポンプの力でお湯を吹き上げる人工間歇泉になっている。
ラザフォード・オールコックは、幕末のイギリス公使として、強硬外交を行った人物である。その著『大君の都』には、富士登山をおえ、伊豆を横断して熱海に滞在した際の出来事が書かれている。」(※)
このボックス公衆電話は、熱海市が市外電話に大変ゆかりが深いので明治100年を記念してわが国最初のボックス公衆電話(明治33年東京の京橋のたもとに設置され、ボックスの型は六角形で白塗りでした)を模して復元したものである。
「古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって、伊豆の来宮の地に鎮座し、来福・縁起の神として古くから信仰され、「延書式神名帳」には「阿豆佐別神社」アズサワケジンジャの名で記されている。平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂公は戦の勝利を神前で祈願し、各地に御分霊を祀ったともと伝えられ、現在では全国四十四社のキノミヤジンジャの総社として、信仰を集めている。」(※)
大楠は、古代の人々が「神にお降り願う木・尊び聖なる木」として崇めてまいりました。斯くて二千年以上の長い間、落雷、暴風雨など、世の天変地異にも耐え、現在でも一年を通じ、常に青々とした楠の葉を繁らせることから、超越した生命力を有する神木と信じられ、「不老長寿」「無病息災」の象徴とされている。
大楠を一周すると「寿命が一年延びる」と信じられ、願い事がある方は、願い事を心に秘め幹を一周すると願いが叶うと言い伝えられ、「長寿の神木、成就の神木」として、多くの信仰を集めている。
麦こがしを使った饅頭で皮が香ばしくて美味しい。
「来宮神社例大祭(毎年7月14日~16日)
毎年例大祭は、7月14日宵宮祭に始まり、7月15日宮神輿渡御、7月16日の神幸祭では、麦こがしを撤く猿田彦命(天狗)の先導により、「42歳の地元男性」が来宮の神々を御鳳輦に乗せ、街の繁栄を祈り市街・浜に降ります。100年以上続く伝統、総勢500人の御神幸行行列は壮大な時代絵巻の再現となります。」(※)
「伊豆山神社の由来は、古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯山とも呼ばれていたが、明治の神仏分離令により現在の社名に改称された。初代将軍源頼朝と北条政子の縁を結んだ場所としても知られている。」(※)
伊豆の蛭ケ小島に配流されていた源頼朝候は、当伊豆山神社を崇敬した。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、当社で二人はむすばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せられた。
「大正3年(1914)1月13日、皇太子であられた昭和天皇後参拝の砌り、親しく若松一株御手植を賜わりました。後に伊豆山神社は、昭和3年(1928)の昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格され、官社としての神威を高くいたしました。
北条政子が若き日に伊豆山に配流されていた源頼朝となぎの木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木である。なぎの葉は、その葉脈の形から容易に裂けません。このことからなぎの葉は、男女の仲が裂けない、願いごとが叶うと古来より伝えられている。」(※)
伊豆山神社はその参道のほとんどが階段であることから、「歴史の証人になりませんか」の呼びかけで多数の参加者により、平成22年(2010)2月14日に神社参道階段の段数調査が行われた。調査結果、伊豆山浜から本殿前までの階段数は887段あります。
走湯温泉は、今から約1300年前に発見されたと言われている全国でも珍しい横穴式源泉。山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れるさまから「走り湯」と名づけられた。また、「伊豆」の国名が走り湯の「湯出」に由来するとも伝えられている。