散歩コース
池袋駅(JR山手線)~板橋宿跡~王子神社~飛鳥山公園~旧渋沢栄一邸~王子駅(JR京浜東北線) 「中山道最初の宿場で、全長約1700mの細長い町並てあり、江戸方面から平尾・中宿・上宿の三つに分かれていた。元禄時代(1688~1704)の調査によると、板橋宿は本陣2軒、脇本陣3軒、大小の旅籠屋54軒、常備の人足および馬は50人と50頭、宿場女郎・飯盛女が公認されていた。
板橋宿は、東海道の品川宿・日光街道(奥州街道)の千住宿・甲州街道の内藤新宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。」(※)
縁切榎は、板橋から中山道を北上すると縁切榎があり、木立の奥に小さな祠が祀られている。かってこのあたりは、何百年もの樹齢を数える巨木がおい繁った薄気味悪い場所であり、この下を嫁入・婿入の一行が通行すると、必ず不縁になると、恐れられた場所である。
板橋区有形文化(建造物)登録の板五米店は、築100年旧米屋商家である。現代は商店街として暮らしの中の賑わいが続いている。
「祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神で、合殿に速玉之男命、事解之男命を祀っている。
境内には大銀杏、関神社がある。関神社は百人一首にその歌がある蝉丸法師が病気で髪が抜けた時、姉である坂上姫の髪でつくったという伝説により、床山・理容業界の神とされる。このかたわらには毛塚がある。東京十社の一つである。」(※)
飛鳥山の地名は、元亨年中(1321~24)、豊島左衛門という人物が、和歌山県の熊野の神(飛鳥明神)を信仰し、その神を祀るための祠を始めてつくり、熊野にちなんでその地を王子、この山を飛鳥山と呼んだのが初めてであるとされている。
現在、飛鳥山公園のサクラは約600本。そのうち約400本のソメイヨシノ(染井吉野)が咲く。
この地にはかって豊島氏の全盛時代には出城があった。江戸時代初期は、旗本野間氏の所領であったが、八代将軍徳川吉宗が幕府に返納させ、王子権現に寄進し、桜を植え、一般に解放して以来、桜の名所とし有名になった。
飛鳥山碑は元文2年(1737)、王子権現別当寺住職宥衛が建てたもので、江戸城吹上庭の滝見亭にあった紀州家献上の名石を用い、碑文および書は儒官成島道筑、纂額は尾張の医者山田宗純の手によるものである。
紙の博物館は、昭和25年(1950)に、和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示する世界有数の紙の総合博物館として、東京・王子に誕生した。王子は、明治初期に近代的な製紙工場のさきがけとなった抄紙会社(後の王子製紙王子工場)が設立された地で、「洋紙発祥の地」として知られている。
渋沢史料館は日本の近代経済社会の基礎を築き、生涯「道徳経済合一説」を唱え、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面においても指導的役割を果たした渋沢栄一の全生涯にわたる資料を収蔵、展示している。
青淵文庫(国重要文化財)は、渋沢栄一の傘寿(80歳)と小爵に昇格したお祝いを兼ねて、大正14年(1925)に竜門社(現、公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈した。
内部はステンドグラスや装飾タイルが書庫に彩りを与えいる。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚などの建築になっている。
大正6年(1917)に、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(清水建設)より贈られた洋風茶室である。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用された。
茶室「無心庵」は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われている。京都裏千家の茶室などを参考にして明治32年(1899)に建てられた。
「渋沢栄一は、武蔵国の豪農の長男に生まれた。幼少より従兄から学問を習い、剣術の道場では北辰一刀流を学んだ。渋沢は、縁あって徳川御三卿の一つ一橋家に仕え、一橋家出身の十五代将軍徳川慶喜が将軍になるに伴い幕臣となった。慶喜の弟昭武とパリ万博や欧州各国を視察し、欧州の文化と経済を肌で学んだ。」(※)
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