「明治5年(1872)汽笛一声新橋を発した日本初の鉄道の終着駅横浜はこの地でした。時を経て横浜駅は現在の位置に移り、この地は客貨の機能を分離して桜木町駅、東横浜駅となりました。さらに幾星霜、国運いよいよ隆昌に向かう我国現代史の過程において、鉄道の果たした役割はかぎりなくおおきいものがありました。この間市民生活の一部としてその責めを全うした貨物駅東横浜は昭和54年(1979)その終焉を迎えました。」(※)
日本丸メモリアルパークは、なだらかな緑地(横浜みなと博物館の屋上)があるウォーターフロント。アリーナでは、コンサートやイベントを行っている。みなとみらい21地区の玄関口にあたり、汽車道で赤レンガ倉庫がある新港ふ頭につながっている。
「旧横浜船渠株式会社第一号ドックは、海軍技師の恒川柳作が設計し、明治29年(1896)7月に起工、明治31年(1898)12月に竣工した。その後、大正期にドックの内陸方向に延長された。
帆船日本丸は昭和5年(1930)に建造された、船員を養成する練習船である。昭和59年(1984)に引退するまでの54年間に、11,500名もの実習生を育てた。帆を広げた美しい姿は、「太平洋の白鳥」と呼ばれていた。初代日本丸の後継として、昭和59年(1984)に日本丸II世が就航し展示・公開されている。」(※)
平成29年(2017)9月、帆船としては我が国初の国重要文化財に指定された。船内見学、帆船日本丸吹奏楽演奏会などのイベントも開催されている。
エアー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、空気を吸い込み圧縮して、高い圧力の空気をつくり出す機械である。このエアー・コンプレッサーは、横浜船渠(後の三菱重工業(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものである。
このドックゲート(扉船)は、ドック開設以来使われてきた先代に代わって、昭和32年(1957)に造られたものを日本丸保存のために昭和59年(1984)9月に改修したものである。
みなとみらい21埋立の礎石は、昭和59年(1984)2月14日の埋立の起工式で、工事の安全祈願と本格的な着工を記念して埋立地の海中に沈められ、その後引き上げられて設置されたものです。
このトーテムポールは、カナダ・バンクーバー港から横浜港との姉妹港10周年を記念し、両港の有効の印として寄贈されたものである。制作者はバンクーバー島に住むコーストサリッシュ族の彫刻家フランシス・ホーン氏で、カナダインディアンの神話にもとづき、上からフクロウ、熊、カエルが彫り込まれている。
「英国陸軍工兵中佐ヘンリー・スペンサー・パーマーの提言に基づき、明治22年(1889)設立の「横浜船渠会社」が明治29年(1896)に建設した船舶補修用のドックである。設計は海軍技師の恒川柳作が担当した。民営のものとしては、現存最古の石造乾船渠(ドライドック)であり、邦人技師の手による明治期の土木技術を今日に良く伝えている。」(※)
ペリー提督が横浜の地に来航した江戸時代から、明治、昭和と、横浜発祥の出来事、文化をモチーフにストーリーを構成、最後は、みなとみらいという港湾都市の未来が描かれフィナーレとなる。
横浜港をテーマにした初めての博物館である。平成21年(2009)4月に横浜開港150周年事業で横浜マリタイムミュージアム(1989年開館)を全面リニューアルし、横浜みなと博物館として生まれ変わった。「歴史と暮らしのなかの横浜港」をメインテーマに、横浜港150年の歴史と横浜港の仕組と役割を伝える展示で構成されている。
30分間隔で時刻を知らせる鐘。船では1日を4時間ずつの当直に分け、当直は4時間の間30分おきに鐘を鳴らす。よって8回目に当直が交代する。
「横浜港の歴史」ゾーンは、横浜港150年の歴史を7つの時代に分けて展示している。神奈川湊、吉田新田、横浜村から、黒船来航、大さん橋建設、昭和戦前の客船黄金時代、コンテナ船の初入港、そして国際競争力強化を目指す現在までを紹介する。