散歩コース
新子安駅(JR京浜東北線)~金蔵院~熊野神社~高札場跡~成仏寺~慶運寺~浄瀧寺~宗興寺~神奈川の大井戸~本陣跡~神奈川台場跡~洲崎大神~権現山~甚行寺~本覺寺~台町の茶屋~神奈川台の関門跡~横浜駅(JR京浜東北線)「東海道五十三次のひとつ神奈川宿。この地名が県の名前や区の名前の由来です。またここが、近代都市横浜の母体でもありました。しかし、関東大震災と第二次世界大戦によって、歴史的遺産の多くを失いました。そのため地元の人でさえ、東海道がどこを通り、宿場町の様子がどのようであったかを知る人は少なくなりました。現在、宿場町当時のものはほとんど失われてはいますが、台町の坂などに、当時の面影を見つけることができます。」(※)
現在の「神奈川本町・青木町」付近は、鎌倉時代の「神奈川湊」であり、江戸時代には「神奈川宿」として栄えた場所です。
金蔵院は熊野神社の北側にあります。しかし、江戸時代は東西に並んでいました。『金川砂子』にその様子を見ることができます。この図によると、金蔵院の境内は今より広く、門の位置も熊野神社と並んでいました。そしてこの門まで、街道から参道が延びていました。
本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木がある。
熊野神社は、もと権現山にありました。平安時代に、紀伊の熊野権現を招いたことによる、いわれています。その後、江戸時代の中頃に金蔵院の境内に移され、明治初めの神仏分離令により、金蔵院から分かれました。
石造大獅子「狛犬」は、嘉永年間 鶴見村 石工 飯島吉六作のものです。
高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消してしまいました。
横浜開港当時、成仏寺はアメリカ人宣教師の宿舎に充てられました。
ジェームス・カーティス・ヘボンは本堂に、S・R・ブラウンは庫裏に住んだといわれています。ヘボンが友人に宛てた手紙の中に、このことが書かれています。
開港当時、この寺はフランス領事館に充てられました。
浦島丘にあった観福寿寺が慶応年間の大火で焼失したため、浦島伝説にかかわる記念物がこの寺にもたらされました。それ以来、慶運寺は「浦島寺」とも呼ばれています。浦島太郎が竜宮城に行った時、乙姫様からいただいたという菩薩像などが伝わっている、といわれています。
開港時にはイギリス領事館に充てられました。
本堂を始めとして諸所にペンキが塗られたといわれています。横浜大空襲で焼失してしまいましたが、当時、イギリス領事が手植した「多行松」と呼ばれる松があり、横浜十名木とされていました。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士が、ここに施療所を開いていました。これを記念する石碑が境内に立てられています。このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行いました。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽くした人でした
徳川将軍や明治天皇の通行の際、その水が使われたといわれています。 この水の量が増えると翌日の天気がよくなるといわれ、街道を通る旅人には、「お天気井声」とも呼ばれていました。
滝の橋の上には現在、高速通路が走っています。宿場町時代には、滝の川を挟んで江戸側に神奈川(石井)本陣、その反対側に青木(鈴木)本陣が置かれていました。本陣というのは、大名や公家などが宿泊や休息をする幕府公認の宿です。
「江戸幕府は伊予松山藩に建設を命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築しました。当時の台場は面積約八千坪の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と一年の歳月を費やして万延元年(一八六〇)に完成されました。明治三十二年(一八九九)に廃止されるまで礼砲用として使われましたが、埋め立てが進み、現存では石垣の一部のみ見ることができます。」(※)
「初代将軍源頼朝が、安房国の安房神社の神をこの地に招いたのが、洲崎大神の始まりといいます。昔、この神社にあった御神水のアハキがなまり、青木町の町名になったといわれています。『江戸名所図会』に描かれた雰囲気は、今も石鳥居や周囲の地形などに残っています。神社前の通を海側へ、第一京浜に出るあたりが舟着き場でした。」(※)
現在、幸ケ谷公園や幸ケ谷小学校のある丘は、権現山の跡であり、本覺寺のある丘ともひと続きでした。この権現山は、古戦場として知られています。戦国時代、関東管領上杉一門の家臣でありながら、初代当主北条早雲に内通して主君に反旗を翻した上田蔵人の砦がこの山の上にありました。
開港当時、甚行寺の本堂は土蔵造でしたが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれでいます。大関東大震災と横浜大空襲によって建物は失われましたが、昭和四十六年(一九七一)に本堂・客殿を再建し、現在に至っています。境内には横浜市の名木古木に指定されている、樹齢二百年以上のイチョウの古木があります。
青木橋を渡ると、正面の丘の上に本覺寺が見える。
山門脇に樹齢200年のスダジイがあり、その下にアメリカ領事館跡の石碑と、横浜開港に尽力した外国奉行岩瀬忠震の顕彰碑がある。
開港当時、アメリカ領事館に充てられたのが、この本覺寺。神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落とし、この木の上に星条旗を掲げだといいます。
安政五年(一八五八)日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉にあたった全権委員・岩瀬忠震を記念する石碑が境内に建てられています。
全国塗装業者合同慰霊碑は、昭和53年(1978)社団法人日本塗装工業会では、創立30周年記念事業の一環としても塗装発祥の地ここ本覺寺に業界の先達を合祀するため、ご住職の厚意によりこの慰霊碑を建立した。
「神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久3年(1863)創業の田中家である。坂本龍馬の妻「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年(1874)。勝海舟の紹介で働いていたと伝えられる。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていた。」(※)
現在の台町あたり、ここはかつて、神奈川湊を見おろす景勝の地でした。弥次さん・喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、「爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とあります。「おやすみなさいやーせ」・・・茶店女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄っています。鯵の塩焼をさかなに一杯ひっかけた後、気ままな旅を続けたのでした。
「台町のこの周辺に、神奈川台の関門がありました。
開港後、外国人があいついで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕えられませんでした。イギリス総領事オールコックを初めとする各国の領事たちは、幕府を激しく非難しました。そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化しました。この時、神奈川宿の東西にも関門がつくられ、そのひとつが西側・神奈川台の関門です。」(※)
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