ゆかりの地
高知市升形電停から西へ50m、南側の病院前に坂本龍馬誕生地の碑がある。坂本家の先祖は明智光秀の一族で、落人として土佐へきたと伝えられる。江戸時代初期には長岡郡才谷(現、南国市)の百姓であったが、17世紀なかばごろに城下にでて商人となり、才谷屋を屋号とした。
ペリー提督が初めて来航した嘉永6年(1853)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中である。土佐藩は立会川河口にあった下屋敷警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わっていた。
坂本龍馬脱藩の道ゆかりの道で知られる布施ヶ坂。文久2年(1862)3月24日、脱藩を決意した龍馬は、同志の沢村惣之丞とともに高知城下を出発。翌25日には梼原に居を構える土佐勤王党の那須信吾の家に宿泊。その後、宮野々番所から韮ケ峠をこえ、伊予(現、愛媛県)宿間、さらには長浜(ともに現、大洲市)から海路で長州(現、山口県)の三田尻に至った。
文久3年(1863)1月、嵐のために下田港に避難してきた土佐藩の船と幕府の船。偶然にも前土佐藩主山内容堂と勝海舟は、この下田で出会う事となった。そして、海舟が坂本龍馬の脱藩の罪を許して貰うために山内容堂に直談判したのが宝福寺である。ここで許されたことで龍馬の足物が取れ自由に飛びまわれるようになり、まさに龍馬にとって伊豆下田は「飛翔之地」となったのである。
勝海舟に弟子入りしてから京都で暗殺されるまでの5年間と、意外なほど短い。
慶応3年(1867)11月15日、大政奉還の1カ月後、京都近江屋で陸護隊隊長中岡慎太郎と密談中を数人の刺客に襲撃され落命。享年33歳。奇しくもその日は龍馬の誕生日である。
この屏風は、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された部屋に、血染めの掛軸と並んである。中折れ二面の屏風には、狩野探幽の富士山の絵、赤穂義士十次郎の書簡など19点が張られている。左面下の猫と牡丹の絵には、53点の血痕が飛び散っており、乱闘のすさまじさを物語っている。