宝福寺(浄土真宗)は、嘉永7年(1854)の下田開港に伴い、一時下田奉行所となり、また唐人お吉の菩提寺としても知られている。
「文久3年(1863)1月、嵐のために下田港に避難してきた土佐藩の船と幕府の船。偶然にも前土佐藩主山内容堂と勝海舟は、この下田で出会う事となった。そして、海舟が坂本龍馬の脱藩の罪を許して貰うために山内容堂に直談判したのが宝福寺である。ここで許されたことで龍馬の足物が取れ自由に飛びまわれるようになり、まさに龍馬にとって伊豆下田は「飛翔之地」となったのである。」(※)
山内容堂を勝海舟が訪問し、謁見し坂本龍馬の脱藩の許しを請い、容堂候がその赦免のしるしに自らの白扇を海舟に与えた。
宝福寺に隣接する唐人お吉記念館には、お吉の遺品や初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの使用した品々が展示されている。
「唐人お吉は本名を斉藤きちといい、天保12年(1841)11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市平衛の次女として生まれた。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓となった。
安政4年(1857)に、体調を崩したハリスのもとに看護婦の名目でつかえたが、ハリスがお吉の腫れ物を嫌がったため、3日後には解雇された。その後、お吉は髪結業や小料理屋の安直楼を営んだがうまくいかず、世間の蔑視をうけるなかで身をくずし、明治23年(1890)に稲生沢川に身を投げた。」(※)
宝福寺の第十五代竹岡大乗住職が葬ったお墓と、その後芸能人(女優水谷八重子さん他)により新しく墓石も寄贈されたお墓がある。
安直楼はハリスに仕えた「お吉」が明治15年(1882)に、小料理屋を営んだ建物である。