嘉永7年(1854)3月18日、ペリー艦隊を追って下田に到着した吉田松陰、金子重輔は役人の目を逃れるため、それぞれ瓜中万二、市木公太と名を変えて岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
当時皮膚病を患っていた松陰は、温泉による治療のため、蓮台寺を訪れ、向い側にある共同湯で夜を明かそうとしていた。そこで偶然この家の主、村山行馬郎医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。
松陰の居間として使われた二階の天井の低い部屋(隠れの間)である。
弁天島周辺で見られる縞々の地層は、数百万年前に海底火山から噴出した火山灰や軽石が、波や海流によって運ばれてできた地層である。
柿埼弁天島には百数年前に、建立されたお社があり弁天様が祀られている。
この龍神は伊豆下田城主がお祭になられた御守護神であったと伝えられている。
弁天島は、嘉永7年(1854)3月27日夜、吉田松陰が金子重輔とともにアメリカ艦船ポーハタン号に向けて小船を漕ぎだした地である。松陰は上陸していたアメリカ人に投夷書とよばれる密航依頼文を渡し、ポーハタン号に向かったが、アメリカ側こ拒否されたために計画は失敗におわった。
宝光院長命寺(廃寺)の跡地は、密航に失敗し自首した吉田松陰と金子重輔が、下田奉行所の命により拘禁された場所であった。